「日本の課題」カテゴリーアーカイブ

製造業を変える!個人のものづくり

12月9日(日)の日経朝刊23面に「ロングテール」や「フリー」などネット時代の経営トレンドを的確に指摘してきたクリス・アンダーソン著作の「MAKERS―21世紀の産業革命が始まる」の本の紹介が掲載されている(関美和訳、NHK出版)。最近発売の日経ビジネス編集の「徹底予測2013」の中でもアンダーソン氏が紹介されている。

「誰でもが設計者となり、自分の机の上でものづくりをしたり、製造専門会社に委託してメーカーになったりできる時代が到来することを説いている。背景にあるのは、デジタル技術による設計と製造の分離、そしてデジタル工作機械によるデスクトップ製造の実現や、受託生産大成の可能性拡大である。」とある。

これは、3次元データを使い、プラスチックの樹脂を何層にも重ねて立体構造物に再現する3Dプリンター技術を言っていると思われる。日経電子版11月7日に「3Dプリンター進化 どこでも工場になる予感(藤元健太郎D4DR社長)」(http://www.nikkei.com/article/DGXNASGF02008_S2A101C1H49A00/)との記事もある。この記事の主張は(1) 3Dプリンターの進化はものづくりを一変させる。(2) 誰もがデザイナーになれる時代も夢物語ではなくなる。(3) 生産・販売コストの節約に縛られないビジネスモデルの構築も可能。というものである。3Dプリンターは以前は数百万円していたが、最近では性能の良いものでも10万円台で購入できると言う。これが本格利用されるとプラモデル業界のビジネスモデルは大きく変わるだろうことが、直ぐ予測できる(図面をすべてデジタルデータ化して販売)。キャメルなどのおまけや指輪、ペンダントなどにも応用できる。

「MAKERS」では、「個人がベンチャー的にモノづくりに入れる余地が大きくなっており、デザインデータを広く公開しながら、ネットワーク的に育てて製品化していくような手法も広がる。それを支える支援サービス(個人向けEMS?)などが拡大して製造業の在り方が根本から変わる」としている。日経記事の評者国領二郎氏(慶應義塾大学教授)は、慶大湘南藤沢キャンパスでは、このトレンドに気付き、数年前から教育研究にデジタルモノづくりを取り入れていると言う。課題も多いが、この大きな流れは無視できない。国領氏は「日本の製造業パラダイムを否定する面があって、受け入れにくいかも知れないが、トレンドの一端は既に日本に到達している。電子機器受託製造サービス(EMS)が登場した時には、設計と製造の一貫性を重視する日本の電子工業は疑いの目を向けていた。ところが米国アップルなどの設計を重視し、製造は外部委託する企業に押される一方である。」と警告を発している。

IT業界としても、要ウォッチである。

東日本大震災時の自衛隊の活躍には目を見張った

「致知2013.1号」のインタビュー記事に「護国への変わらぬ思い」と題して、東日本大震災の際、約7万人の陸上自衛隊の陣頭指揮に当たった第31代陸上幕僚長(現三菱重工顧問)火箱芳文氏の話があった。自衛隊員の被災者および日本を想う献身的な活躍と、それを統率したリーダーシップに感銘を受けた。

防衛省で幹部会議中だった。地震発生後、東北方面からの情報を受けて、現存する災害対処計画の枠を超えて、全国の部隊を集めることを決断し、各方面の総監に東北地方に向かうように指示を出された。地震発生から30分後には全国の部隊が東北に向かって動き出した。本来、これだけの部隊を動かすには閣議決定による大臣命令が必要だが、処分覚悟で幕僚長の判断で動かしたそうだ。津波対応で水につかりながらの生存者捜索、ご遺体の収容に加えて、飲み物や食べ物などの生活物資の供給・配布にも注力した。トラックも来られないような状況の中で、都道府県からの救援物資を陸上自衛隊駐屯地に集め、航空自衛隊が花巻、松島、福島空港まで運び、それを陸上自衛隊のトラックで被災地に運ぶという自衛隊全体の連携プレーで避難所まで届けることが出来た。

7万人の隊員皆さんのご苦労も並大抵のものではなかった。毎日損傷を受けた何百体と運び込まれるご遺体収容作業をしていると、心的外傷後ストレス障害の発症も予想されたため、メンタルヘルスチームも派遣した。特に原発対応は放射線との戦いの中で、隊員の健康を損なうことが心配だったが、「俺がやります。行かせてください」と使命感に燃える隊員たちが次々名乗りを上げてくれたと言う。あまり効果がなかったと叩かれたヘリコプターからの水かけも日本を護るとの決死の思いで真上から、そしてより近づいて水をかけるという過酷な作業だった。

火箱氏は、隊員たちにはほんとに頭が下がる思いといいながら、「隊員たちがこれら大変な作業をやり始めたからこそ、事故と闘っていた東京電力や東京消防庁など他の省庁の職員の人たちのモチベーションを上げるキッカケになったのではと思う」と言う。「何よりも米国政府が本気になり、トモダチ作戦により強力な支援を開始したという意味では大きかったと思う」とも。

そのリーダーシップと、隊員の使命感に基づく行動の凄さが、周囲をも動かし、より大きな力となって拡がったことを思うと、今回の自衛隊の活動の意義は想像以上のものと言える。火箱氏は、「今、日本を取り巻く情勢は厳しいが、自分の国が如何に素晴らしいかを自覚し、多くの国民がこの誇るべき国を潰してなるものかと思うことで、再び蘇ると思う。すばらしい歴史や文化、伝統と言うものを子供たちにもっとしっかりと教育すべきだ」とも言う。全く同感だ。

台湾で最も愛される日本人八田與一

日清戦争で勝利し、第二世界大戦で敗北するまでの50年間(1895~1945)台湾は日本が統治していた。欧米が戦争で勝った国を植民地とするのは、人や資源を搾取し、奴隷化することが目的だったが、日本は統治国を日本の一部として、国のインフラ整備や教育などに力を入れる施策を取ってきた。当時の台湾総督府では、都市計画の策定・実行や、学校の建設、鉄道建設、水利施設の整備など、台湾を日本以上の国にするための施策を打った。

その中でも、24歳の時(1910年)に台湾総督府に技手として勤務した金沢出身の八田與一氏は、56歳に亡くなるまで、ほとんど全生涯を台湾のために尽くし、今でも「台湾でも最も愛される日本人」として台湾の人の心に生き続けている。

台湾南西部の嘉南平野にある当時アジア一と言われた烏山頭ダムの建設と1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設に携わり、それまでサトウキビさえ育たなかったと不毛の地域を、台湾最大の穀倉地帯にした。人間味ある現場責任者として、農民に親しまれたそうだ。10年にわたる大工事の最中、不幸にもトンネル工事で50数名が殉職した際、遺族全戸を回り、工事の継続をお願いしたというエピソードもある。場所は植民地である。

1600㍍以上の堰堤といい巨大な烏山頭ダムが完成し、轟音をたてて躍り出た豊かな水が、嘉南平野に張り巡らされた水路に流れ込み、みるみる一帯を潤した姿を見た農民は「神の恵みだ。天の与え賜うた水だ」と歓喜の声をあげたそうだ。八田氏はその後、台北に移り、太平洋戦争でフィリピンに従軍する船が撃沈され亡くなられた。戦争に負けて、台湾にいた日本人は全員日本への帰還を命ぜられたが、八田氏の奥様は、烏山頭ダムの放水口に身を投げ八田氏の後を追われた。

烏山頭には夫妻の銅像が立ち、命日には毎年追悼式が行われている。中学校の歴史教科書にも掲載され、学校教育の場でも語られている。昨年には「八田與一記念公園」が開園し、今年には記念切手が発売になり、1000年近くたっても今の台湾の人たちに語り継がれている。昨年の東日本大震災時、台湾国民の募金として200億円が日本に贈られた。この額が、世界一だったと言うことで台湾の多く人たちが喜んだとの報道もあったが、まさに八田與一氏への恩返しと言う意味があったのかも知れない。