「健康・老化」カテゴリーアーカイブ

底抜けに面白い小話(日経コラム:唐池氏)

5月18日の日経夕刊の記事に家内ともども大笑いしてしまいました。夕刊1面の著名人によるコラム(明日への話題)はいつも楽しみに読ませていただいていますが、今回の「18歳と81歳」の話は、73歳となる私にとっても、身につまされる話であり、他人ごとではない話で、面白おかしく高齢者に対して自分を良く知るべしとの教訓とも受け取れる一文だった。コロナ禍での巣ごもり状態の生活で、新聞の記事でこんなに大笑いしたのは珍しいことで、皆さん方にもひと時の笑いを添える記事として全文を紹介します。著者の唐池恒二氏は、現JR九州会長で、社長時代に豪華列車“ななつ星”を走らせた方だ。

4月20日の小欄に仙厓和尚の言葉を紹介した。「70歳で迎えがきたら留守だといえ。80歳で迎えが来たら早すぎるといえ」。堺市に住む知人から「老人会の会合で合唱する歌詞と似ている」と、横浜のS氏から「近くの古民家の土間の壁掛けに墨書された言葉と同じ」と、それぞれ手紙を頂戴した。仙厓和尚の影響力の大きさに驚き、老いにどう向き合うかが多くの人の関心事だと気づいた。私も70歳までもう少し。老いについて考えてみようとしたとき、70代の知人から底抜けに面白い小話を聞いた。
道路を暴走するのが18歳、逆走するのが81歳。
心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳。
恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳。
ドキドキが止まらないのが18歳、動悸(どうき)が止まらないのが81歳。
恋で胸を詰まらせるのが18歳、餅で喉を詰まらせるのが81歳。
自分探しをしているのが18歳、みんなが自分を探しているのが81歳。
東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳。
社会に旅立つのが18歳、あの世に旅立つのが81歳。
早く「20歳」になりたいと思うのが18歳、できれば「20歳」に戻りたいと思うのが81歳。
「嵐」というと松本潤を思い出すのが18歳、鞍馬天狗の嵐寛寿郎を思い出すのが81歳。
調べると、出典はお笑い長寿番組「笑点」の大喜利ネタらしい。で、オリジナル版に挑戦してみた。
笑点と聞いて桂歌丸を浮かべるのが18歳、新珠三千代を思い出すのが81歳。(それは、昔のドラマ「氷点」でしょ)

私もオリジナル版を。
自分をバカス(化かす)努力を惜しまないのが18歳、自分がボケるのを怖がるのが81歳。
先(未来)に胸膨らませるのが18歳、詐欺で心壊されるのが81歳。
お粗末でした。

冒頭の仙厓和尚の言葉の全文はインターネットで調べると以下の通り。
「60歳は人生の花。70歳で迎えがきたら留守だといえ。80歳で迎えがきたら、早すぎるといえ。90歳で迎えがきたら、急ぐなといえ。100歳で迎えがきたら、ぼつぼつ考えようといえ」
仙厓和尚は江戸時代の臨済宗の禅僧で、禅味あふれる絵画でも有名な方らしいが、まさに人生100年時代の到来を予見していたよう!

またまた末期がんから復帰された方が!

当ブログでも何度か、末期癌から回復された方を紹介してきた。例えば、博多の歴女白駒さん(「強く生きる力が湧いてくる「感動する日本史」(HTTPS://JASIPA.JP/OKINAKA/ARCHIVES/399)だ。「医師は治すのが仕事なのでこうした事例を追跡研究することはなく、「たまたま」治ったという話は「偽りの希望」を与えるだけだとして積極的に口外することもなかったために、自然治癒事例は事実上放置されてきた」というのは、全米ベストセラ―『がんが自然に治る生き方』の著者Dr. Kelly A. Turner ケリー・ターナー博士だ(HTTPS://JASIPA.JP/OKINAKA/ARCHIVES/2016)。
今回は、「致知2020.4号」で紹介された南三陸町で「農漁家レストラン松野や」を経営する松野三枝子氏の事例だ。ターナー氏の話からすれば、このような事例は、がん患者の人たちに希望を与える貴重な事例と言える。タイトルは「”生きる“それが人生で最も大切なこと」。
記事のリード文は下記。

2006年、53歳で突然末期がん(スキルス性胃癌ステージⅤ)を宣告された松野三枝子さんは、東日本大震災時、津波で壊滅的な被害を受けた南三陸町の病院に入院中だった。間一髪で命を助けられ、翌日から重篤な体を必死に動かし炊き出しを開始したところ、3か月後の精密検査で全身に転移していたがんがすべて消えていたという。松野さんが呼び寄せた、科学では証明できない奇跡に迫る。

反対を押し切って名家に嫁いだ松野氏は、弱音を吐けない状況の中で、11人家族の食事の世話から畑仕事など歯を食いしばって頑張っていた53歳の時、突然倒れ、緊急搬送された。3日間意識なくステージⅤのがん宣告、「余命1日もなし」と。1か月後の2度目の手術で食道・胃・脾臓・胆嚢・胆管・腎臓、そしてリンパ節180か所を摘出。2011年大震災の年には、無数のがんが肺に転移、輸血治療と点滴で寝たきり、絶望の生活を送っていた時、大地震が発生。その時2週間ぶりの風呂に浸かっている時だった。看護師さんからもらったバスタオルを体に巻いて、屋上に駆け上がった。途中で津波が襲ってきて、流される患者や、車ごと流される若い娘さんなどが流される、まさに地獄を見た。将来の有る若者が命を奪われ、余命短い自分が生かされている不合理さを強烈に感じ、炊き出しをしようと、前日まで寝たきりの身でありながら、バスタオルに看護師から貸してもらったジャンパー姿で、高台にあった自宅まで帰ることにした。自宅まで車で10分位の道のりを2時間40分かけて帰ったそうだ。その後は毎日5升釜三つでご飯を炊いて周囲に配り、ご本人は行方不明の父を探して遺体安置所を回り続ける。こんな姿がテレビで放映され、主治医の目に留まり、津波ですべて流された薬をもらうことが出来、そして震災3か月後の精密検査で奇跡が起きた。「余命なし」と言われるほどの重症だったにも拘らず。前身のがん細胞がすべて消え去っていたのだそうだ。その事実に先生のほうが驚きを隠せなかったと言う。
その後、避難している人たちが南三陸へ戻った際の憩いの場ともなることを願って、「農魚家レストラン松野や」を立ち上げ、2014年1月にスタート。疲れ果てて動けなくなったり、しょっちゅう意識不明になりながら、今も郷土料理つくりに精をだして多くの人に感謝されているそうだ。
松野さんは下記のような言葉でこの記事を締めている。

私は自分の人生を最高に楽しんでいます。末期がん、大震災を共に生きぬくことができたからこそ、まずは自分が真剣に生きて、命の大切さを伝えたい。とにかくあと1年でも2年でも生き続けたいと思います。

末期がんからの生還に関する科学的研究は、冒頭のターナー博士が言うには、進んでいない。が、これまでの事例では、後ろ向きに考えるのではなく、積極的に前を向き、人と協調しながら笑顔で目標をもって生きる人に、たまではあるが起こる奇跡のようだ。

つれづれなる日々

70歳も超えた1老人の日々ではあるが、お陰様で昔の誼でお声かけ頂くことも多く、5月~7月の間、NSSOL(現日鉄ソリューションズ)関係で6回、高校の同期会、恒例の大学研究室の先輩の軽井沢別荘への招待など、結構出かけることが多く、痴呆症になることもなく元気に過ごせている。スポーツジムも通い始めてから7年を過ぎ、1400回近く、毎回1時間から1時間30分筋トレ、有酸素運動、プールを楽しんでいる。

昨日は、8年ぶりの東京ドーム進出を果たした”日本製鐵広畑“の応援に行ってきた。私が入社した年(昭和46年)に、三沢(元中日ドラゴンズ)を擁し2回目の全国優勝を果たした記憶もあり、都市対抗野球では名門と称されたチームではあるが、最近は全国大会への出場もままならない状態だった。昨日は1回戦でJFE西日本との対戦だったが、終盤追い上げたが残念ながら負けてしまった。しかし、内野席をうずめる人たちの、大声でうちわをたたきながらの応援で、私も久しぶりに広畑応援歌も歌い、野球に酔いしれることが出来た。

家に帰るとベランダでは、5月に満開となったペラルゴニウムが、一度は散ってしまいながら、また蕾をつけ、咲き始めている。3~4か月は楽しめる。さらに増やしたいと思い、6月に挿し木を3鉢してみた。何とか大部分が根を張っているようだ。

今年の東京は、昨年と打って変わって、長雨と冷夏が続いている。日照時間3時間以下が20日間続き、野菜やコメの成長が心配される状況となっている。昨日は久しぶりに4時間を超える日照時間となったが、またもや曇りがちの日々が続くそうで、梅雨明けも来週後半になりそうだ。

最近、メディアの痴呆症問題を取り上げる回数が異常に増えている。“5人に一人(2025年)”と言われると、気になり、ついついメディアに釘付けになる。何事にも関心を持ち、“喜怒哀楽”の“喜”と”楽“の多い日々を送りたいと思っている。家内にも”口角が下がっている“との注意をよく受ける。心せねば・・・。