創業者早川徳次の理念を忘れたシャープ?!


4月4日の各新聞で下記のような報道があった。

「経営再建中のシャープを傘下に収める台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業は、シャープの創業者、早川徳次氏(1893~1980年)の記念館をつくる検討に入った。大正時代に会社を起こし、日本を代表する総合家電メーカーにシャープを育てた早川氏の功績を顕彰する。」

「PHP松下幸之助塾2016.3-4」に歴史作家北康利氏による「早川徳次不撓不屈の男」の記事があった。北氏曰く、「世に“伝説の創業者”と呼ばれる人は、いくつもの艱難辛苦を乗り越えて成功を掴んでいるのが常だが、早川徳次が歩んだ道の峻嶮さは他に類を見ない。だがそれでも彼は挫けることなく前を向き続けた。そして挑戦することをやめなかった。(中略)今を耐え忍んでいるシャープの皆さんにその不撓不屈の人生を思い起こしてほしい」と言う。

北氏の記事を読むと、信じられない人生を歩んでいる。1歳11か月で母親の病気故に出野家に里子に出される。継母による折檻は尋常でなく、殴る蹴るは日常的で、厳寒の中、肥ツボに突き落とし、近所の人の声でしぶしぶ井戸に連れて行って氷のような水をかぶせる

ことも有ったと言う。見るに見かねた近くの祈祷師の救いの手で7歳10か月の時、かんざしや洋傘の付属品を作る金属加工を生業とする丁稚奉公先に行ったが、契約金や毎月の小遣いも継母に全部持って行かれ苦しい生活を余儀なくされた。ろくに学校にも行けなかったが、努力を怠らず、職人としての腕を磨き、「徳尾錠」(穴をあけずにベルトを締める)や、水道自在器(水道栓の先につけて蛇口を自由な方向に向ける器具)を考案し、それがヒットしたことで独立を決意(18歳10か月)し、江戸本所に仕事場を借りた。ここで名を轟かせることになる繰出鉛筆[シャープペンシル]の改良版に取り組んだ。これがまずは海外で有名になり、その波が国内に波及して売れに売れ兄と共に“早川兄弟紹介を設立、工場も本所以外に押上、亀戸と3工場を建設するまでになった。しかし、また大きな不幸が襲う。関東大震災だ。家も工場も、そして最愛の妻と二人の子どもも失い、失意の中で、会社を解散。販売を委託していた日本文具製造から借金の取り立てがあり、シャープペンシルの特許を無償提供し、技術指導のために従業員14名と共に大阪に向かう。日本文具製造を辞し、大阪の片田舎の後のシャープ本社となるとに工場兼事務所を建設し、「早川金属工業研究所」を設立(30歳)。その後も国産ラジオ受信機第一号機(シャープラジオ)の開発、そして戦後の混乱の中で倒産の危機に瀕したが、それを克服し、国産テレビ第一号(1951年)、カラーテレビと世界初のトランジスターテレビ(1960年)、世界初のオールトランジスタ電卓第一号機(1964年)、世界初のIC電卓(1966年)、手のひらサイズの電卓(1969年)と時代の先を見つめ、ライフスタイルを変える革新的発明にこだわった製品を次から次へと開発してきた。

シャープの企業理念は“いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって、広く世界の文化と福祉の向上に貢献する”だ。これは早川徳次の理念でもある。今回のシャープの悲劇は薄型テレビで市場を席巻したのち、さらに超大型の投資をしたものの価格競争に巻き込まれてしまった。つまり、「いたずら」に規模の拡大をおった事が取り戻せない失敗となってしまった。これは、「質」を求めてきたシャープの歴史の中で、「量」をおったが故とも言える。

不本意にも鴻海(ホンハイ)の傘下となったが、創業者早川徳次の理念を噛みしめ、再起を図ってほしいと切に願う。

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