「自然との共生」をどう考える(震災の教訓)


「致知」6月号の特集は「復興への道」。昨日届いたばかりで、読破中であるが、その中に驚くべき事実が記事となっている。海洋プランニングの熊谷航氏の記事「古の神社が教えるもの」に、「多くの神社が水際で災害から免れた」との調査結果が掲載されている。

福島県南相馬市から新地町までの海側には、神社や祠などが全部で83あったが、そのうち14か所が流されたが、他は災害を免れたとの事です。そして、地形のデータに神社の位置と国土地理院から発表されている津波の浸水線を組み合わせた図を作ると明らかだが、ほとんどの神社が浸水線上に位置していると言う。神社の来歴を調べると、流された神社は比較的新しく、被害を免れた神社は江戸時代の資料でも「時期不詳」とか「分からず」と書いてあり、ともかく古い神社だったそうです。このことから熊谷氏は下記のように推察しています。

今回の浸水線は昔の干潟や湿地と陸地の境目だったのではないか。浸水線付近の地名が「湊」や「塩崎」「萱浜」となっているのも裏付けになるかと思う。この地域の歴史を辿っていくと、かって住民はもっと内陸や高台に住んでいたが、長い年月をかけて干潟を干拓するなどして少しづつ標高の低いところに生活圏を広げていった。そしてその時に一緒に移した神社は津波でやられている。

釜石でも、月読神社は標高30メートルのところにあって、やはりそのすぐ下まで津波が来ていたそうだ。鎮守の森でも、樹齢何百年の木が流れてきた家を堰き止めたが、杉の木は根の張りが浅く、根こそぎ津波にやられてしまったとか。

いろんな教訓を今回の震災は残してくれた。一方で釜石湾の入り口に1200億円以上の総事業費と約30年の歳月を費やして造られた湾口防波堤は、今回の津波でその大部分は水没し、また宮古市田老地区の巨大防波堤(昭和三陸地震の教訓から45年かけて造った)も、今回の津波は楽々と超え、堤防の内側を完全な荒野とした。自然の驚異と対抗するのではなく、自然と共生していた時代の知恵を教訓として、復興に役立てることを熊谷氏は主張している。東京大学名誉教授月尾嘉男氏も、仙台平野にある「浪分神社」は慶長三陸地震の津波が到達し引き返した地点を後世に記録する神社で、今回も津波の到達限界となったそうだが、この警告を忘れ海寄りの低地に家や田畑をつくり全滅してしまったと言う。自然災害の多い日本では、自然と共生するための文化が残されている。今一度掘り起し、思い出すべきと。

「「自然との共生」をどう考える(震災の教訓)」への1件のフィードバック

  1. 先日 NHK「47都道府県の桜めぐり」のなかで釜石の桜を取り上げていました。 昨年3.11では桜の手前で水が止まり、難を逃れた家々があったそうですが、それもそのはず! 数十年前の三陸沖大地震の直後に 鎮守の意味で植えた桜だそうです。

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