検証なき国は廃れる!?(日経)

「政治家と言う人種には“反省”と言う言葉がないのでは」と常々不思議に思っている。政治とカネの問題や、選挙違反で謝罪する事はあるが、自分の過去の失敗を認めると、選挙に響くから、明白な証拠がない社会的事象に関しては反省や総括の言葉は聞かない。企業においては、“失敗”は成長のエンジンであり、昨今企業の成長に必須と言われるイノベーティブな風土を創るために失敗を奨励する雰囲気まである(http://okinaka.jasipa.jp/archives/1865)。

自民党政権下で進めてきた原発に関しても、福島第二原発の大事故に関しての総括はまだ聞かない。4月24日の日経2面のコラム「風見鶏」に「検証亡き国は廃れる」との刺激的なタイトルの記事が目に留まった。その記事は、

「市場の競争にさらされる企業は失敗から教訓を学び、生かされなければ、廃れてしまう。国も同じだ。」

で始まる。当記事では、イラク戦争時の大量破壊兵器問題を論じ、英国は8年越しの検証を終え6月に結果を公表するのだと言う。誰が、何処で、なぜ間違った判断をしたのか?ブレア首相(当時)はじめ、当時の要人や軍幹部百数十人が尋問に応じたそうだ。「あの戦争は英国民に、英米同盟への強い懸念を植え付けてしまった。その後遺症は癒えていない。」と政府の元高官は自省する。英国には、失敗から学ぼうとする能力があるとする。

米国も01年の同時テロの教訓も含めて独立調査委で洗い出しそれぞれ約600ページの報告書を10年ほどかけて出した。日本と同様、攻撃に参加しなかったオランダも戦争を支持したことが正しかったかどうか調査し、約550ページの結果を発表している。

一方日本では、大量破壊兵器があると言う前提でイラク戦争支持を決めたその経緯に関して、民主党政権の要請で、支持を決めた経緯に関して外務省が調査し、4ページの要約を発表し「これ以上公表すると各国との信頼関係を損ないかねない情報がある」と説明した。

日本はなぜか、失敗を深く分析し、次につなげるのが苦手と言う。が、失敗を謙虚に反省につなげることで、企業も着実に成長していくことは著名な経営者が説くところだ。政治も同じく、外交、内政に関わらず時々の政策が正しかったかどうか、もっといい施策があったのかどうかの反省をすることで、将来の政権にも引き継げる知恵が出てくるのだと思う。時に第三者委員会を設けて検証することも有るが、結論ありきの委員会であることが多いように思う。当コラムでは、特定機密文書に関する情報監視審査会が第三者的検証を行えるかどうかの今後の試金石と言っている。が、「政府側は19万点の文書の件名もすべてを明かそうとしない」(審査会メンバー談)。

東北地方太平洋沖地震から9ヵ月後の12月、福島第一原発事故の根本的な原因を調査するために、国会に調査委員会が設置された。「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(通称「国会事故調」)。国民の代表である国会(立法府)に、行政府から独立し、国政調査権を背景に法的調査権を付与された、民間人からなる調査委員会が設置されたのは、我が国の憲政史上初めてのこと。その委員長の黒川清氏が、600ページにわたる報告書をまとめた。「規制の虜に陥った「人災」であると明確に結論付けた。「規制の虜」とは、規制する側(経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会など)が、規制される側(東京電力などの電力会社)に取り込まれ、本来の役割を果たさなくなってしまうことを意味する。その結果、「日本の原発ではシビアアクシデント(過酷事故)は起こらない」という虚構が罷り通ることになったのだ。米国が9・11テロ対策として、原発で起こった場合の防御策(電源喪失問題など)を二度日本にも伝えたが日本側は何の対策も取らなかったと言う。報告書での提言も、国会で全く議論されることなく、原発再稼働、原発輸出の道を突っ走る状況について警告を発する意味で本を出版された。「規制の虜 グループシンクが日本を滅ぼす」(講談社、2016.3)だ。読んでみたいと思っている。

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“CSV経営”とは?

4月4日の朝日新聞7面のコラム「波聞風聴」の「企業と社会~価値の共有が生みだす利益~」と題した解説委員多賀谷克彦氏の記事に注目した。当ブログで紹介した“社会的インパクト投資”(http://okinaka.jasipa.jp/archives/4496)もリーマンショックの反省で生れた概念だが、同じようにCSV経営も最初は2006年マイケル・ポーターが提唱したが、世の中で注目を浴び始めたのがリーマンショック後だそうだ。

CSVとは、Creating Shared Valueの略で“企業と社会の共通価値の創出”と呼ばれている。このコラムで3つの事例が紹介されている。

  • ・一つはキリンの「復興支援キリン絆プロジェクト」の一つとしての福島県産の梨と桃を使った缶チューハイ”氷結”の限定販売だ。:「放射能汚染」という風評被害に悩む農家への信頼を高める活動。
  • ネスレ日本は、神戸市とともに「介護予防フェア」を約60か所で開いている。集会所にコーヒーマシンを提供し、高齢者が集会所まで歩く、会話する機会を作っている。:介護予防への支援が「ネスカフェ」を継続的に購入してもらう機会となっている。
  • 伊藤園は「おーいお茶」の茶葉を得るために、耕作放棄地を茶畑に造成。茶葉の全量買い取り契約を、農家と結んでいる。:農業の振興と安定的な原料確保の両立。

これらの活動は、自社の生産、営業活動が社会的な課題の解決につながっており、多くの企業が取り組んでいる社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)とは趣が異なる。CSRは寄付や社員のボランティアに頼る事が多く、企業のイメージ戦略に近い。3社のような活動をCSV経営と言い、短期的な利益追求ではなく、長期的な視点から利益を生む活動と言える。

CSV経営は、元来日本の考え方に近いと多賀谷氏は言う。近江商人の「売り手、買い手、世間」のためになる商いを「三方よし」と呼ぶ言葉や、京セラ稲盛名誉会長の「人の為、世の為に役立つことをなすのは、人間として最高の行為である」とCSVの考え方に賛同する経営者は多い。一橋大学の名和高司教授は「日本は課題先進国。企業の視点から、日本の社会的課題の解決策を見出せば、それはイノベーションにつながる」と指摘する。

リーマンショック後、企業経営者の意識が明らかに変わりつつあるように思える。利益至上主義から、社会的責任経営へ、さらにはステークホルダーの幸せを追求するコンシャスカンパニー(世界の超優良企業がすでに始めている「人を幸せにする経営」(http://okinaka.jasipa.jp/archives/1718)へと大きなうねりが生れつつある。

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経済は、人類を幸せにできるのか?

先般、ウルグァイのムヒカ元大統領の“消費主義社会の敵”(http://okinaka.jasipa.jp/archives/4748 )を紹介した。最近、本やメディアなどでも、「経済成長必ずしも幸せとは限らない」論調のものが目立つようになってきた。“経済は人類を幸せに出来るのか?”(ダニエル・コーエン著、林昌宏訳、作品社、2015.10刊)にも、下記のような表現がある。

今日、少なくとも先進国では、人生は長く豊かだ。民主主義や自由が謳歌されている。しかし、ほとんどの人々は人生を辛いと感じている。フランス(著者はフランスを代表する経済学者)では、ここ30年間に抗うつ薬の服用量は3倍になった。米国では、幸福と感ずる指数は、1950年代よりも30%近く低い

そして象徴的な事例を紹介している。血液センターの所長が、輸血量を増やそうとして、輸血者に報奨金を出すことにした。すると所長の予想に反して献血者の数が減った。なぜか?それまで人々は善意から献血に協力していたが、献血は他者を助けるのではなく、お金を稼ぐ行為になった。すなわち、道徳心を持つ人は献血をやめ、経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動する人がやってきた。

さて、献血センターの所長は対策として、元に戻すか、報奨金を増やすか、どちらを選ぶだろうか?現代社会では後者を選んできたと筆者は言う。GEのジャック・ウェルチは「ストレスを原動力にする経営管理」を実行し、毎年従業員の10%を解雇したそうだ。企業の人材管理術も大きく変化し、ボーナスや昇進で職場内の競争を重視し、輸血センターの所長のように振舞うようになった。

4月25日の日経4面の「グローバルオピニオン」のコラムにチェコの経済学者トーマス・セドラチェク氏の「成長至上主義と決別を」の記事があった。彼は、金融緩和や財政出動で経済を覚醒させる即効薬も、一時的には経済成長させてももはや限界が来ていると言う。日本は過去30年に渡って政府や中央銀行から薬を飲まされ、その結果がGDPの200%を超える政府債務だ。マイナス金利はこうした施策が底をついたことを象徴していると言う。経済は安定が何よりだ。不況対策を強調して、好不況の波を大きくすると国民は不安を増長する。日本の社会は地球の中でもっとも豊かに見え、経済成長しなければならない理由は見当たらない。これからは安定した社会の富を分け合えばよい資本主義と民主主義の価値は「自由」であり、「成長」ではない政治のパフォーマンスを経済成長率で評価することに異を唱え、国予算の使い方や財政の安定化を評価の対象とすべきと提言している。

「1億総活躍社会」「GDP600兆円」と華々しく打ち上げた政府スローガン、ほんとにこれでいいのだろうか?確かに格差が拡大し(中間層が減少)、働かざるを得ない女性も増えていることを考えれば、保育所を増やさねばならないことも分かるが、高齢者も含め、国民全員GDPに寄与すべく働けとの号令のように聞こえ複雑な気分になる。たしかに家事はGDPには全く寄与せず、保育所に預けながら働けば二重にGDPに寄与できる。働き方の改革を行い、子どもには親の愛情を精一杯注げる時間を確保する必要性は、過去の偉人が物語っている(http://okinaka.jasipa.jp/archives/469)。格差をなくし、将来不安を助長する好不況の波を安定させ、お互いに助け合える社会の構築で、将来を担う子供の成長にもっと重きを置ける、そんな社会に向けて、みんなで考えるべき時がきているのではなかろうか。

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冲中一郎