ポルトガル旅行~その2~リスボン

翌朝、西へ30km強の世界遺産の街シントラと、ユーラシア大陸最西端のロカ岬を回り、再度リスボンへ戻って観光後ホテルへ。

やはり最初に紹介すべきはリスボンのベレン地区(ベレンは、イエス・キリスト生誕地でもある「ベツレヘム」のポルトガル語読み)。この地には、大航海時代の繫栄を象徴する建物がいくつかある。テージョ川に面して、世界遺産の“ベレンの塔”、“ジェロニモス修道院”があり、大航海時代を記念して建てられた“発見のモニュメント”もある。観光客で最も混雑する地区だ。ベレンの塔。16世紀、テージョ川の船の出入りを監視するため要塞として建造された。大航海時代の栄華を反映した建築・芸術様式であるマヌエル様式の傑作として知られる。<マヌエル様式>は、これから訪れる都市の建造物によくみられるもので、大航海時代の繁栄を象徴するポルトガル独特の建築・芸術様式だ。その様式名は、インド航路発見し海外進出事業を押し進め、在位中にアフリカ、アジア、新大陸にまたがる一大海洋帝国を築いたマヌエル1世(1469-1521)の名に由来している。ゴシック建築様式をベースとし、海外交易によって築かれた巨万の冨を象徴するかのような海草やロープ、鎖、貝殻、天球儀などの過剰装飾が特徴だ。ベレンの塔の前の公園に、1922年世界初の南大西洋横断に成功した水上飛行機“サンタクルス号”のモニュメントがある。

ベレンの塔とさほど離れていない場所(ヴァスコ・ダ・ガマ1460~1524が旅立ったテージョ川岬)に“発見のモニュメント”がある。エンリケ航海王子(1394~1460)の没後500年を記念して1960年に建てられた高さ52mの帆船を模した巨大なモニュメントだ。大航海のパトロンでもあり、先駆的指導者だったエンリケ航海王子を先頭に、ヴァスコ・ダ・ガマやブラジルを発見したカブラル、初の世界1周を成功させたマゼラン、日本にキリスト教を持ち込んだザビエルなど33人が飾られている。広場には世界地図が描かれ、ポルトガルが上陸した各国の年号が記されている(日本は1541年)。

次に訪れたのは“ジェロニモス修道院”。この修道院は、ヴァスコ・ダ・ガマとエンリケ航海王子の偉業をたたえ、1502年、マヌエル1世の命により着工。東方貿易や植民地支配で得た莫大な富が投入され、最終的な完成までにはおよそ300年もの歳月が費やされた。まさにポルトガルの黄金時代を象徴する存在。「マヌエル様式の最高傑作」とされ、世界遺産に登録されている。特に南門の彫刻には、1584年にジェロニモス修道院を訪れた天正遣欧少年使節団も驚嘆したそうだ。西門を入ると高い天井を持つ壮大な空間があった。柱に巻かれるロープ状のものなどマヌエル様式の彫刻物が随所にみられる。入り口にはヴァスコ・ダ・ガマの棺が飾られている。

今回は行けなかったが、リスボン最古の建造物のサン・ジョルジェ城から見る絶景パノラマ、1883年創設の、「国立古美術館」も人気だ。14~19世紀のヨーロッパ美術や、大航海時代に世界各地から集めた宝物が展示されており、日本人として注目したいのが、日本からポルトガルに渡った狩野内膳作の南蛮屏風。インドのゴアで出航準備をするポルトガル船と、それが長崎の平戸に到着した様子が描かれた屏風は、桃山文化の最高傑作。
次回はシントラ・ロカ岬の予定。

ポルトガル旅行~序章~

2月末から3月にかけて、6泊8日のポルトガル旅行に行ってきた。ポルトガルは、ヨーロッパの中でも日本にとって、最も長い友好の歴史を持つ国の一つだ。戦国時代の1541年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、鉄砲(火縄銃)の技術を日本に伝え、その5年後にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教を伝えたのが始まりだ。その頃のポルトガルは1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、1500年にはブラジルも発見した、まさに大航海時代、ポルトガルが世界をスペインと2分する大繁栄時代だった。1582年には天正遣欧少年使節団(14~15歳の4名)が2年半かけてリスボンに到着、スペイン、イタリアなどを訪問し、1590年に帰国した。ヨーロッパに日本の存在をアピールし、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって書物の活版印刷が日本で始まった。しかし、南蛮貿易で勢力を増した西国大名を警戒した江戸幕府がキリスト教禁止令や鎖国令を発し、ポルトガルとの交易が途絶えた時期もあったが、室町、安土桃山時代から江戸時代に至る密度の高い交易に寄り、ポルトガル文化が日本に浸透し、ポルトガル由来の日本語がある。ボタン、パン、タバコ、テンプラ、コンペイトウなど数多い。

羽田からフランクフルト経由でポルトガルの首都リスボンへ。乗り換え時間含めて17時間強かかり、ホテル到着は24時(現地時間)近くとなる、ヨーロッパでも最も遠い国だ。

ポルトガルの歴史は紀元前2世紀ローマ帝国の支配(その遺跡がエヴォラにある)を受け、

6世紀には西ゴート王国の支配下となり(今回は訪れなかったがリスボンのサン・ジョルジュ城は西ゴート族が築いたもの)、711年には、イスラム教徒ムーア人がアフリカからイベリア半島に侵入、722年からスペイン、ポルトガルでのレコンキスタ(イスラム教徒をイベリア半島から追い出すキリスト教徒の国土回復運動)の結果、1143年にポルトガル王国が誕生した(首都コインブラ)。以降キリスト教が支配する国となり、大航海時代を迎える。

今回ポルトガルを回ってみて、一部大航海時代前の面影も残るが、やはり大航海時代を主導したエンリケ航海王子(1394-1460)、インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマ(1460~1524)、ジョアン2世の急逝の跡王位を継ぎ、全盛期を迎えた“幸運王”マヌエル1世(1469-1521)の3人が、ポルトガルの各地の建造物に足跡や名前を残している。典型的なモニュメントがリスボンのヴァスコ・ダ・ガマが出港した港に建設された“発見のモニュメント”だ。マヌエル1世の名に由来した、ゴシック様式をベースとし、海草やロープ、鎖、貝殻、天球儀などの装飾が特徴のマヌエル様式の建築物も数多くある、典型はトマールの”キリスト教修道院“で、リスボンの”ジェロニモス修道院“もそうだ。

ポルトガルのどの都市でも、建造物には特徴的な飾りが施されている。”アズレージョ“というタイルの青い飾りだ。15世紀頃ムーア人がスペイン経由でポルトガルに持ち込んだ藝術らしい。マヌエル1世がシントラの王宮に取り入れ、以降ポルトガル全土に普及し、ポルトのサン・ベント駅では2万枚のアズレージョで歴史が描かれている(1900年)。個人の家の壁にも使われている。


次の稿から順次訪問した各地を紹介する。キリスト教の三大聖地のひとつである、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラも訪問した。

小学校卒業60周年記念同窓会開催(10日)

10日「小学校卒業60周年記念同窓会」に参加するため姫路に行ってきた。たしかに72歳と言うことは12歳で小学校を卒業して確かに60年たっていることを再認識できた。鬼籍に入った人を除いて約90名の半分の45名もの参加者(男性29名、女性16名)がいたのには驚いた。
小学校入学時は飾磨郡糸引村だったことから、名前も〝糸引小学校“で5つの村から通う田舎の小さな小学校だ(今は珍しく広い田畑に家が建ち、驚くほど生徒が増えているそうだ)。3年生の時姫路市と合併し、同時に給食が始まったような記憶もある。私が姫路にいるとき2~3回同窓会をやった記憶があるが、恐らく30数年ぶりの再会だ。以前にも当ブログで紹介した著名な書道家黒田賢一君(https://jasipa.jp/okinaka/archives/345)も同窓だが、当日は書道関係の総会があり重職にあるため残念ながら参加できなかったそうだ。

ともかく涙が出るほどの懐かしさで一杯だった。田んぼの中を駆け巡り、お互いの家を行き来しながら遊んだ6年間の、中学、高校時代とまた違う、忘れられない、近しくより深い仲間意識がよみがえり、これだけの年月を経ても、一目見ただけで分かる人、少し見れば分かる人がほとんどだった。男女問わず、参加者ほとんどの人のそばに行って話をしたが、昔も含めて話が弾み、予定時間の2時間半が大幅に超え、3時間半近くがたってやっと全員写真にこぎつける有様だった。

地域には“灘の喧嘩祭り”と言う勇壮な秋祭りがあり、1年が正月よりこの祭り中心に回っていると言っても過言ではないが、この祭りの責任者となったり、老人会のお世話をしたり、村の有力者として活躍している人も多い。今でも建設業など現業で活躍中の人もいる。私も含めて、村外に出ている人もいるが、今でも出身村に対する愛着心は強い。その中で、仏画の世界でカルチャーセンターの講師なども務めている女性がいた。インターネットでは

阿藤無華(仏画講師)
端正な伝統仏画の技法の上に、新しい試みを重ねあわせ、独特の世界を現出する。よみうり文化センターなどで仏画を教える。仏尚美術会会員。アートクリエイティブ主宰。

と紹介されている。大阪の産経カルチャーセンターでも講師をしている。彼女の絵はインターネットでも紹介されているが、彼女からもらった仏画をUPしておく。

他にも姫路で歯科医院を開き、姫路歯科医師会長も務め、昨年秋の叙勲で旭日章をもらった友人もいる(今回不参加)。
同窓生が頑張っている姿を見ると、ほんとに嬉しく、誇りに思う。