カルタゴ、ベネチアに学べ!

東大名誉教授で、地球環境問題にも詳しくメディアにもたびたび登場される月尾嘉男氏が、「日本再生の針路―次なる百年への舵を切れ」とのタイトルで致知6月号に登場している。

アメリカへの過度の依存体質、またそれに伴う国防問題に対する弱腰、電機業界に代表される内向き体質(韓国製に完全に押されている、発展途上国では使用人が勝手に中身を盗むから冷蔵庫は鍵付き必須なのに対応が遅れ韓国製に敗退)など、国全体が大きな危機に瀕していると言う。データでみると、主要55か国で、15歳以下の人口比率最下位、65歳以上の人口比率最上位、財政赤字は米国に次いで2位、政府予算の国債比率はトップ、税収比率は32位、貿易収支も24位、国際観光収入の対GDP比は最下位、1990~92まで世界一の国際競争力を誇った日本がいまは25位。

このまま進むと日本はどうなる?恐ろしい話だが、過去に栄えた国家が滅亡した状況と、今の日本が酷似していると警鐘を発する。

まずはカルタゴ。貿易大国として栄えたカルタゴは文化を軽視し、国家観や歴史観を持たず、経済発展のみに熱中した。結果は3次にわたるローマとのポエニ戦争に敗れ、国は殲滅した。もう一つは、イタリアの海上都市として栄えたベネチア。軍艦を大量に保有し、ヨーロッパ最強の国家として地中海を支配していたが17世紀ころから陰りが出始める。顕著な変化は、造船技術革新を怠り、オランダなどに追い抜かれ技術後進国となっていくとともに軍事力も後退していった。最大の問題は社会が成熟し、既得権益が固定し、革新を起こす精神風土が衰微したことにある。その風土により、適齢男子の結婚比率が急速に低下、17世紀には4割となり、子供のいる夫婦も4割となった。そして18世紀末にナポレオンに戦わずして降伏させられた。

工業社会から情報社会への移行にしても、55か国の中で、コンピュータの国民普及率は23位、インターネットの回線速度は34位、携帯電話普及率46位と、情報社会としても二流国に成り下がっている。明治維新を動かしたのは、何よりも劣等国として見下されることに耐えがたいと言う、「武士道」に通ずる名誉を重んじる気風であり、それが最大の動機という。名誉こそ日本民族の精神の根底をなす概念という。政治の世界で、能力のなさを嘲笑されながらも居座る大臣、不祥事に恥じることのない官僚や企業幹部、かってであれば、切腹によって恥をそそいだような事態にも鈍感になった社会の蔓延と月尾氏は嘆く。そしてかってのような「日本人としての精神的バックボーン」を取り戻し、明治維新以降の100数十年と、これから先の100数十年とはまったく別の社会だという位の気構えを持って、政治家や官僚はもちろん、国民一人一人が当たらなければならないと説く。

月尾氏は危機状態をあらわすために、「29日目の恐怖」という例え話を紹介している。

ある時、湖面に蓮の葉が1枚浮かび、翌日には2枚、次の日には4枚、4日目には8枚と倍々で増加し、29日目には湖面の半分を覆った。この湖面が完全に覆われるのはいつか?毎日観察してきた人には明日と分かるが、知らない人は気付かない。すなわち歴史観を持って社会を見ないと現在の日本の状況には気付かない。人口減少など世紀を跨って起こっている大変化は、緩やかだが恐ろしく巨大な異変なのだ。2050年には朝鮮半島も日本もすべて中国領になっているという噂もある。もっと真剣に日本の今を見つめなければと思う。

自然は慈母であると同時に厳父である(寺田虎彦)

東日本大震災後、寺田虎彦(1878-1935)が話題にのぼることが多くなった。虎彦がなくなる前年の昭和9年に、函館の大火(3月・死者2200人)、北陸水害(7月)、室戸台風(9月・死者約2700人)、昭和8年には昭和三陸地震(M8.1・死者約3000人)と立て続けに災害が起こった。このことから科学者(地震学者でもある)寺田虎彦は、災害に対する警告として、いくつかの随筆を発表している。(「天災と日本人」寺田虎彦著、山折哲雄編、角川ソフィア文庫)

日本の気候、自然の多様性は、他国にはないことは知れ渡っている。古来日本では、この自然を、敬い、畏れながら、環境に適応してきた。この日本特有の自然と共生する中で、日本独特の文化・風土を生んできたと言う。随筆「日本人の自然観」より。

地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測しがたい国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸みわたっている。・・・眼下の大地は母なる大地であると同時に、刑罰の無知を揮って吾々の兎角遊惰に流れ易い心を引き緊める厳父としての役割をも勤めるのである。

そして、文明が進めば進むほど天然の脅威による災害がその激烈の度を増すと言う事実を指摘している(「天災と国防」より)。

文明が進むにしたがって人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろな造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の驚異を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れだして高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を亡ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものは誰有ろう文明人そのものである。

昔の人間は過去の経験を大切に保存してその教えに頼ることにはなはだ忠実であった。過去の地震や風雪に耐えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからそうした経験に従って造られたようなものは関東大震災でも多くは助かっているのである。

さらには、「やはり文明の力を買いかぶって、自然を侮りすぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。」と。

前稿に記した、釜石の湾口防波堤(1200億円、30年工事)や、宮古市田老地区の巨大防波堤が逆に被害を大きくした(安心して防波堤の近くに居を構えた)事実を見るとき、そして災害が起こる長サイクルを考えるとき、自然の「慈母」の姿に抱かれる日々の中で、「厳父」としての自然の怖さをどうやって次代、次次代に引き継ぐか、教育も含めて考えねばならないと思う。寺田虎彦の随筆を読むと、東日本大震災を受けて最近書かれたものとも思える位現実的に感じられる。90年近く経っても全く進歩していないというか、天災に対する我々の考え方・姿勢が文明の進歩に対応して退化しているように思える。

「自然との共生」をどう考える(震災の教訓)

「致知」6月号の特集は「復興への道」。昨日届いたばかりで、読破中であるが、その中に驚くべき事実が記事となっている。海洋プランニングの熊谷航氏の記事「古の神社が教えるもの」に、「多くの神社が水際で災害から免れた」との調査結果が掲載されている。

福島県南相馬市から新地町までの海側には、神社や祠などが全部で83あったが、そのうち14か所が流されたが、他は災害を免れたとの事です。そして、地形のデータに神社の位置と国土地理院から発表されている津波の浸水線を組み合わせた図を作ると明らかだが、ほとんどの神社が浸水線上に位置していると言う。神社の来歴を調べると、流された神社は比較的新しく、被害を免れた神社は江戸時代の資料でも「時期不詳」とか「分からず」と書いてあり、ともかく古い神社だったそうです。このことから熊谷氏は下記のように推察しています。

今回の浸水線は昔の干潟や湿地と陸地の境目だったのではないか。浸水線付近の地名が「湊」や「塩崎」「萱浜」となっているのも裏付けになるかと思う。この地域の歴史を辿っていくと、かって住民はもっと内陸や高台に住んでいたが、長い年月をかけて干潟を干拓するなどして少しづつ標高の低いところに生活圏を広げていった。そしてその時に一緒に移した神社は津波でやられている。

釜石でも、月読神社は標高30メートルのところにあって、やはりそのすぐ下まで津波が来ていたそうだ。鎮守の森でも、樹齢何百年の木が流れてきた家を堰き止めたが、杉の木は根の張りが浅く、根こそぎ津波にやられてしまったとか。

いろんな教訓を今回の震災は残してくれた。一方で釜石湾の入り口に1200億円以上の総事業費と約30年の歳月を費やして造られた湾口防波堤は、今回の津波でその大部分は水没し、また宮古市田老地区の巨大防波堤(昭和三陸地震の教訓から45年かけて造った)も、今回の津波は楽々と超え、堤防の内側を完全な荒野とした。自然の驚異と対抗するのではなく、自然と共生していた時代の知恵を教訓として、復興に役立てることを熊谷氏は主張している。東京大学名誉教授月尾嘉男氏も、仙台平野にある「浪分神社」は慶長三陸地震の津波が到達し引き返した地点を後世に記録する神社で、今回も津波の到達限界となったそうだが、この警告を忘れ海寄りの低地に家や田畑をつくり全滅してしまったと言う。自然災害の多い日本では、自然と共生するための文化が残されている。今一度掘り起し、思い出すべきと。