「日本の歴史・文化」カテゴリーアーカイブ

「富岡製紙場」世界遺産登録への道

「明治日本の産業革命遺産」が韓国との関係で多少のぎくしゃく感はあったが、無事世界遺産に登録された(7月5日)。私の出身母体である新日鉄の八幡製鉄所も含まれていることを考えると感慨深いものがある。世界遺産登録までのプロセスは、個々には違うと思うが、2014年6月に近代産業遺産として初めて世界遺産に登録された「富岡製紙場」の登録に至る経緯に関してNPO法人「富岡製紙場を愛する会」理事長高橋伸二氏が「致知2015.8」に投稿されている。

30年ほど前には地域住民、政府関係者を含め、日本はもちろん、世界の絹文化の大衆化への貢献など、その重要性をほとんどの人が全く認識していなかったと言う。1987年に操業を停止(1872年の設立)したが、その翌年高橋氏の父(農民詩人&県議会議員)の20回忌を機に、地元の文化人の人達が一堂に会し、富岡製糸場の保存・愛護活動を始めたそうだ。しかし、操業停止以降、所有企業(片倉工業)が維持・管理していたが、草木が生い茂り誰もよりつかない“迷惑物件”で苦情も出る始末。そんな状況下で、2003年小寺群馬県知事が公の場で「富岡製糸場は世界遺産になる価値がある」と宣言してくれたことが活動に火をつけた。が、市民側の意思を明確に示すことなしに政治や行政は動かないとの思いで一念発起、地元のあらゆる団体に協力を仰ぎ、市民の意思を結集すべく大市民集会を決行したりして、市民の側から積極的な働きかけを行った結果、やっと県の担当者が動き、2004年県庁内にやっと「世界遺産推進室」が設置され、動きが一気に加速された。難航した推薦書の文面が出来上がり世界遺産委員会に受理されたのが2013年1月だった。2014年6月21日を万感の思いで迎え、市民6000人の祝賀パレードで喜びを爆発させた。

高橋氏の30年近い活動の原動力は?お父さん含め、自分の利益ではなく、無私の精神をもって、人知れず人々の幸福や地域の発展に尽くしてきた地元の文化人たちの姿に行き着くと語る。もちろん、そのような人たちを結集し、諦めることなく活動を盛り上げてきた高橋氏のような人がいたからこそ、偉業が達成できたのだと思う。

翻って、安倍政権の重要課題「地方創生」について思う。地元を愛し、地元を何とか活性化したいとの熱い思いを持つ高橋氏のような人を探し出し、その人たちを行政が支援することで、いろんな施策を市民を巻き込みながら実施していく。失敗もあるだろう。しかし、時間をかけてでも試行錯誤の中からほんとの活性化策がきっと出てくる。地元への愛情が消えない限り。強み、弱みを理解するために外部の人も必要だと思う。しかし、ほんとにコアとなるのは地元を愛する気持ちだ。プレミアム商品券は一時的なもの。持続可能な活性化策を探らねば、今回も「地方創生」は夢物語で終わるだろう。世界遺産登録を喜ぶのもいいが、そこに至るプロセスに学ぶことも多いと思う。

姫路城「白鷺」の色蘇る!

21日の日経朝刊40面文化面に「城を基の姿に 平成の大修復」と題した大きな記事があった。姫路出身者としては、副題「姫路城―白鷺の色蘇る」に目が止まった。姫路城は平成21年秋から5年かけての修復工事が来年3月で完成する。記事によると、「これまでの囲いが外され、初夏の晴天の下、鮮やかな白鷺が蘇った」とある。今月12日の姿が姫路市のホームページに掲載されている(http://www.city.himeji.lg.jp/s60/2851146/_21909/siro-weekly-photo)。Twitterなどでは「白すぎ」との意見もあるようだが姫路市の担当は「これが昔の姫路城の白さだ」と言う。東京オリンピックの年に「昭和の大修復」(木曾から芯柱を運び、姫路駅前の大手前通りを練り歩いた姿を思い出すー高校3年)以来50年ぶりの大修復だ。来年4月が楽しみだ(この時期に合わせて、高校卒業50周年記念同窓会の4月4日姫路での開催が既に決まっている)。

記事によると全国の城址で歴史的な建造物の修復が進行中らしい。天守閣や石垣を修理したり、戦災などで失われた建物を木造で復元する。主に鉄筋コンクリートで整備された「昭和の大修復」とは異なり、多数の城址が建造時の姿と工法を尊重しているのが、「平成の大修復」の特徴と言う。修復中または修復を終えた主な城は、北から弘前城、仙台城、白河小峰城、会津若松城、小田原城、掛川城、名古屋城、大洲城、熊本城。弘前城は10年かけての本格的な修復、仙台、白河小峰、会津若松は東日本大震災での損傷修復だ。

特に興味深いのは名古屋城。天守は太平洋戦争末期の空襲で焼失。現在は1959年に鉄筋コンクリート造りで再建されている。掛川城、大洲城、白河小峰城も木造での復元例があるが、名古屋城のような巨大な天守では例がないそうだ。天守も含めて本丸御殿も4年後の18年を目標に完成させるとの事だ。

熊本城も戦後コンクリート造りで天守を復元したが、1998年からやぐら門、塀や御殿を木造で復元する作業が続き、今後10年以上完成までにかかると言う。熊本城は、江戸時代には多数のやぐらを持つ全国有数の巨大な城だったそうだが、その復元を目指している。小田原城もコンクリート造りの天守を木造で復元中だそうだ。

記事では、明治維新後の廃城令や、戦災で失われた城を復元する動きが増えてくるだろうとみている。何と言っても城は次代に継承していかなければならない貴重な日本の財産だ。世界遺産姫路城は我が故郷の自慢だ。来年4月が待ち遠しい。

 

日本初の「第九」演奏はドイツ捕虜により四国の地で『心にのこる現代史』~その3~

年末の風物詩「第九」、この曲が日本で初めて奏でられたのは1918年6月1日。ウィーンでのベートーベンによる初演から94年後、場所は徳島県鳴門市大麻町板東。そして演奏者が日本に抑留されていたドイツ人捕虜たちだったとの事だ。

1914年第一次世界大戦勃発。日本はドイツに宣戦布告(日本は日英同盟の関係から戦争に参加)し、ドイツの拠点青島を日本軍が陥落させた。その際4700名ものドイツ人が捕虜になり日本各地の収容所に送られた。ところが日本には外国人捕虜の収容施設がなく、仕方なく徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、約1000人のドイツ人を収容した。板東は四国お遍路の一番札所の地でもあり、もともと地方からやってきた旅人を弘法大師の生まれ変わりと思い、大切にもてなしてきた風土があった。ドイツ人の捕虜も「ドイツさん」と呼び、捕虜をもてなしたそうだ。捕虜も街の人々に酪農のやりかた、パンの焼き方、ビールや楽器のつくり方などを惜しみなく教えるとともに、ドイツ様式の8本の石橋まで作った(今でもドイツ様式の石橋が2個残っており日独の懸け橋となっている)。収容所の中では、演奏会や演劇公演なども盛んに行われ、なんと3つのオーケストラと2つの合唱団が結成されたとか。そんな中で、技量を重ねながら取り組んだのが1918年6月1日の第九の演奏だった。

先勝国民と捕虜と言う立場を超えた暖かい交流が出来たのも、収容所所長松江豊寿所長の深い人間愛で支えられたからと白駒氏は言う。当時の政府からは「ドイツ兵を甘やかし過ぎだ」と何度も注意を受けたが、松江所長は「たとえ捕虜となっていても、ドイツの兵隊さんたちも、お国のために戦ったのだ。彼らは決して囚人ではない」との信念で、「弱者の誇りを保つ」姿勢を常に持ち続けたと言う。松江所長は、会津若松出身で、戊辰戦争で「朝敵」の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津藩の悔しさを受け継ぎ、敗者に対するいたわりの気持ちが自然と出たのだろう。2年8カ月の捕虜生活を終えてドイツへ帰国する際に松江所長に言った言葉、

あなたが示された寛容と博愛と仁愛の精神を私たちは決して忘れません。もし私たちよりさらの不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で私たちも臨むことでしょう。“四海の内みな兄弟なり(論語)”と言う言葉を、私たちはあなたと共に思い出すことでしょう

"第九“の演奏には「四海の内みな兄弟なり」という崇高な思いが秘められていた。ブログでも何度か紹介した感動プロデューサー平野氏(http://jasipa.jp/blog-entry/9271)は「恩贈り」との言葉を使っている。「恩返し」は恩をもらった人にお返しする事、恩をもらったのに知らんぷりをする人を「恩知らず」、もらった恩を自分の周りの人に送っていくことを「恩贈り」と。「恩返し」は当事者同士の関係性で終わるが、「恩贈り」は社会全体に広がっていく。

今、国内では「アンネの日記」が破られたり、「ヘイトスピーチ」が話題になったり、不穏な空気が漂っているが、日本人の持つ”思いやり“の精神を世界に広げ、戦争のない平和な世界を作るために、今一度「日本人の誇り」を取り戻し広げて行かねばと強く思う。白駒さんはそのために全国を駆け巡り活躍されている。