度重なる日本の窮地を救った重光葵!

今朝の日経新聞の1面コラム“春秋”に、70年前の今日、米戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した重光葵のことが書かれている。その前夜に残した短歌も紹介されている。

願わくば御国の末の栄え行き、我が名をさげすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような栄えある日本になってほしい」との意味だ。ミズーリ艦上で調印を終えてホテルに帰って休んでいた重光に、重大な話が飛び込んできた。マッカーサーが日本に軍政を敷こうとしているとの報告で、その布告内容は「行政、司法、立法の三権を含む日本帝国政府の一切の機能は、本官(マッカーサー)の権力下に行使せらるるものとす。英語を公用語とす」というもの。この件は日経“春秋”のコラムにも書かれているが「致知2015.7」に「重光葵~その渾身の生き方に学ぶ~」とのタイトルで作家福富健一氏が投稿されている記事にも詳しく書かれている。

この話を聞いた重光は「それはまずい。ただちに中止させねばならない」と、翌日臨時閣議を開き、布告が中止されるよう努力する方針を確認。これを受けて翌日、重光はマッカーサーを訪ね、「日本政府を通して占領政策を実行することが最も賢明である」「占領軍が軍政を敷き、直接行政の責任を取ることは、日本の主権を認めたポツダム宣言以上の事を日本に要求するもの。今回の布告は政府抜きで直接命令できるものであり、政府への信頼はなくなり国内は混乱に陥る。布告は即刻取り下げて頂きたい」と粘り強く伝え交渉を続けた。その結果、マッカーサーは重光に対し心を開き、布告の取り下げを約束し、「重光大臣、必要ならいつでも来て差支えない」と機嫌よく握手まで交わしたとの事だ。

福富氏は、重光を「小村寿太郎と並び称される外交官」と言う。A級戦犯として禁固7年の刑期を終えた後も、日米安保条約改正交渉の魁として、吉田茂の結んだあまりにも日本に不利な条約の改定交渉を米国務長官ダレスと行い、後に岸総理が改訂を成し遂げることにつながった。

昭和7年上海での天長節式典で爆弾が投げ込まれ、右足を失ったが、国歌斉唱の時故、その場を離れず隻脚の身となってしまった。1国を背負って立つもののすさまじいまでの気概を示す言葉として

自分は戦場において討ち死にの覚悟である。もし今日爆弾に倒れるとも、それは外交戦線の先端におるものの本望とするところである。自分のごときものがそれによって我が帝国の外交に何らかの魂を入れることが出来るなら望外の幸せである

との重光の言葉を紹介している。福富氏は、重光は他人の批判や悪口をまったく口にせず、しかも日本が存続の危機にあっても決して逃げず、当事者として必ず課題を克服する行動力を持ち、拘置所で一緒だった笹川良一氏に「真に男が男として惚れきるのが重光葵の真骨頂」と言わせた「真のジェントルマン」だったと言う。

日本の大きな分岐点に、重光葵のような人がいたからこそ今の繁栄があるとつくづく思う。福富氏も言う。「いくら立派な法律が完備されても、その運用の成否は人間、ことにリーダー如何であることを感じ続けてきた」と。今の政治にどこまで期待できるのか、将来に不安を感じるのは私だけだろうか?

11人の会社を6000人の一流企業に成長させたその秘訣とは?

その企業は、日立キャピタル。その立役者は、花房正義氏。「致知2015.9」に「誠こそすべての礎」と題した花房氏とTACT高井法博会計事務所代表社員高井法博氏との対談記事があり、その中で80歳になられる今でも「花房塾」と称し、各企業での講演などで全国を飛び回っておられる。岡山出身の花房氏の人生は、期待された跡継ぎを放棄して、画家を目指して東京に出てきたのがスタートだ。しかし、東京では美術学校にも入れず、仕方なく東京経済大学に入学。そこで出合った、経営学の大家「山城章先生」によって花房氏の人生は大きく開くことになった(山城先生は今は故人だが、今でも名だたる企業が参画している「経営道フォーラム」などを実施している「山城経営研究所」の発起人として花房氏は活躍された)。

大学卒業と同時に、創立間のない「日立家庭電気販売」に入社、月賦販売が始まり作られた「月賦販売」に異動、社員は社長含めて11人だった。その会社が「日立クレジット」になり、さらに「日立キャピタル」になった。その会社を牽引し、好業績で日立に貢献してきたことで、後日日立本体の取締役にも抜擢されている。

山城先生の教えに基づき、いろんな施策を実施してこられた。理念の明確化とその理念の実践のための行動指針策定、そして「人を愛して人を活かしていく企業」を目指すことなどだ。日立キャピタルで掲げた企業理念は「健全経営・人間尊重・社会責任」。行動指針で実体経済に基づいたクレジットビジネスに徹するなどを掲げ、サラ金など目先の利益を追求する単なる金融はやらず、徹底したサービスに特化することで、債権内容が高く評価されダブルAの格付けをもらったそうだ。

花房氏の人を大切にする経営に興味を持った。「人を育てる楽しみをもっと意識せよ」と経営者によく言われるとの事だが、人を育てるにはまず、基本をしっかり根付かせることが大事で、その上で自由に働いてもらうことが大事と花房氏は言う。「自由・自己責任・自助努力」の3つの言葉を言い続け、決められたことや、上から言われたことだけをやると言うのではなく、自分自身で考えて行動すべしと言うことを徹底された。さらに、リーダーの条件として「改革者・人間愛・自己規律」を挙げられる。

成長する企業と言うのは、煎じ詰めると、社員もお客さまもすべて、人を愛し、人を活かす企業だと思うんです」との花房氏の言葉は、11人の会社を6000人の一流企業に育て上げ、日立本体からもその業績を高く評価された人の言葉として、大きな重みをもって強い共感を覚える。

”感謝“の心を、今一度考えて見ませんか!

当ブログでも、自分の幸せ、周囲の人の幸せ、会社の同僚の幸せのために”感謝の心“の必要性を説いてきた。当ブログで何回か登場して頂いた鈴木秀子さんの記事を紹介したい、鈴木氏は、80歳を超えても、今なお「幸せな生き方」に関して全国を回ってお話しされたり、本(「幸せになるキーワード」など)を出版されたりと大活躍されている。(記事は「致知2015.7」の連載「人生を照らす言葉」より)

北原白秋の様々な苦難を乗り越えた人生を顧みながら、「からたちの花」等の童謡を世の中に送り出し、50歳前後から視力を失ったあとも創作意欲は衰えず57歳で亡くなるまで著作は2000冊に及ぶ白秋の人生を「苦難を受け入れた時、深い幸せに気付く」と鈴木氏は評する。「1人ひとりが愛と幸せの発信地に」とのタイトルでの記事を紹介する。

私たちの幸せは他人から与えられるものではなく、自ら作り出していくものです。その時どうしても見落としがちなのがあたり前のことに感謝の気持ちを持つことです。私たちが日常生活で抱く激しい感情や深い悲しみ、爆発寸前の怒りは、海に例えれば大きな波のようなものです。波が強烈なだけに水面下に隠れている穏やかな喜びや静かな感動、小さな幸せは気付かないままに見過されてしまうことが多いのです。しかし、この当たり前のものに目を向けて行った時、そこにこそ一過性ではない本当の幸せが隠れていることを忘れてはいけません。それは、健康で生きていられること、歩いたり走ったりできること、働く職場があること、家族と団らんの時間を過ごせることといった些細なことで、いくらでも数え上げることが出来ます。もし、幸せと言うものが分からなくなったら、当たり前のように思える、この小さな幸せを一つ一つ数え上げて見たらどうでしょうか。ただそれだけで幸せ感覚が戻ってくると思います。当たり前と感じていた出来事に感謝の心が生れ、生きているその事自体に喜びを感じるようになった時、その人は既に「愛と幸せの発信地」となって、社会を照らしているのです。そういう人が一人、二人と増えていくことで、この社会もきっと明るくなるでしょう。

幸せはいつも自分の心が決める」相田みつをの有名な言葉を思い出させるが、幸せは身近なところに“あたり前”の形で一杯あり、考え方ひとつですぐ気づけるもの。幸せになるために“感謝の心”を自分の中に探してみませんか?

冲中一郎