終活を考える


喜寿を迎えて8か月。男性の平均寿命81歳に近づき、巷に飛び交う“終活”の言葉が気になり始めた。友人含めて身近な人たちの訃報に接することも多くなったせいもあり、より身近に死を考えるようになったこともありそうだ。

”終活“という言葉が初めて出たのは2009年8月週刊朝日での連載「現代終活事情」だそうだが、当時は葬儀や墓、遺産相続が中心だった終活が、現在は余生の生活設計、認知症になった場合の介護方法、余命宣告や延命治療を望むかどうかなど老後の生活全般を考える概念になっている。

私も数年前、エンディングノートを購入し、一部記入をしたが記入したのはまさに治療方法の希望、死んだ場合の葬儀方法、連絡して欲しい人、財産状況など、死亡前後の家族が困らないための情報をまとめたものとなっている。

最近「迷惑な終活」(内館牧子著、講談社、2024.9.9刊)を読んだ。70代の夫婦の終活に対する考え方の違いをストーリーにしたものだ。妻(礼子)は、いわゆる終活に熱心で、夫(栄太)にも進めるが、夫は「生きているうちに死の準備はしない」と妻の勧めに同調できない。彼の主張は「これまでの人生でやり残したことにケリをつけるのが終活だ」と、あくまで自分の人生を全うすることに注力する。そこで、「高校の時思いを馳せた女性が忘れられず、かつその女性の恥ずかしい姿を覗いた失礼をお詫びしたい」と思い立ち、行動に出る。が、彼女は自分を覚えていない。しかし、栄太の考え方や行動に刺激を受けた高校の友人たちも、礼子も残りの人生を、死を考えるのではなく、自分の人生を精一杯生きることに目覚めるとのストーリーだ。

内館氏もあとがきで、70代は「老人のアマチュア」と言い、ひとくくりに”高齢者“、”老人“とされるのではなく、主人公圭太のようなワクワクとする生き方もあるのではと言う。

「妻の終活」(坂井希久子著、祥伝社文庫、2022.8刊)にも思い知らされる面があった。42年連れ添った妻(杏子)が突然ガンで余命1年の宣告を受けた。会社に人生をささげてきた夫(廉太郎)は食事や洗濯など自分の身の回りのことは何もできないのに子供じみた意地を張るばかりで、娘たちにも馬鹿にされる。杏子は余命1年の宣告以来、廉太郎が一人で生活できるよう、近所付き合いも含めて、一人で生活するためのすべてのことを教える日々を送った。余命少ない中、なかなか覚えようとしない廉太郎に苦労しながら日々を過ごす。これが“妻の終活”?というより、死に直面した杏子が廉太郎の余生を送るための”終活“を促したともいえる。

様々な”終活“があるのが分かったが、「残りの人生を後悔なくしっかり幸せな気分で生きていく、そして残される人に迷惑をかけないこと」がその基本のように思われる。が、「それがそう簡単なことではない」というのが実感だ。夫を亡くした妻、妻を亡くした夫、どちらが余生を不自由なく生きていけるか?夫婦仲がいい場合、あまりよくない場合で答えは違うと思うが、世間では妻に先立たれた夫の方がその後の人生が辛いと言うのが一般的なようだ。私も廉太郎と同じく団塊世代だが、若い世代は我々とは違うのかもしれないが・・・。若い人たちも、充実した幸せな老後を送るために、今をどう生きるか考えておいた方がよさそうだ。

後期高齢者になり、知人の訃報が増えていく状況の中で、色々考えさせられる。