2050年の日本は?

人間学を学ぶ月刊誌「致知」2月号のテーマは「2050年の未来を考える」だ。哲学者森信三師(1896~1992)の「2025年日本は再び蘇る兆しを見せるであろう。2050年、列強は日本の底力を認めざるを得なくなるであろう」との言葉を受けての特集だ。今の十代の世代が社会の中枢を担う年に、日本を森信三師の言うような大国にするためには、今社会の中枢を担っている我々は何をしなければならないのか?各界の方々が論を貼っておられるが、今2025年、25年後の2050年日本は蘇るとの確信と言うよりも今の日本の課題を述べられている。総じて皆さんは、日本の美質、若手の能力、食料自給率、国土強靭化、AIなど技術力、安全保障などの問題について指摘されながら、それぞれの問題が2050年までに世界から尊敬され、リードする日本に回帰できるまでに回復できるかに関しては明言されてはいない。

分かりやすい話として、ここでは水の問題と米をはじめとする農業の問題を紹介する。

水を制する者は国家を制する」と題してグローバルウオーター・ジャパン代表で国連で環境審議官もやられていた吉村和就氏の記事を紹介する。

世界を見ると今も熾烈な水の争奪戦がある。国連加盟国193国のうち自国で豊富な水源に恵まれているのは僅か21か国。さらに水を安全、安心に飲める国は日本を含めて11カ国しかないと言う。日本では日々潤沢に使える環境に浸っており、そのありがたみを忘れているが、世界的には深刻な問題となっており、いずれは日本に波及する心配も大きいと。

気候温暖化による川の渇水(ライン川)や、海面上昇による塩水の川への遡上による農業への打撃(ナイル川)や、地下水への塩水潜入(インドネシアの首都移転の原因?)など、日本でも2018年に信濃川で11キロ上流への塩水流入が発生した事例もあり、今後水道水への影響も懸念されている。

特に驚いたのは、情報通信、特にITとAIの水への影響だ。データセンターの拡充が世界で盛んに推進されているが、この拡大が水資源に与える影響の大きさだ。データセンターでは電気の消費量の大きいのは既知だが、それを冷却するための水の使用量も馬鹿にならないとの事だ。それに拍車をかけているのが生成AIで、質問1個で約2リットルの水を消費すると言う、世界で現在1万3千のデータセンターが稼働していると言う。アメリカの例では、1日に使用する水の量は約800万トン、東京都の1日の水道水使用量が450万トンというからそのすごさが分かる。今後も車や産業機械の自動化など情報通信の進化が予測される中、さらなる水不足を加速するのは間違いないと思われる。

吉村氏は、水の最大活用を考えた河川流域を中心とした小規模分散型の街づくりなどの提案も行っているが、日本の世界に誇る水技術(浄水処理、水質分析、下水処理、海水淡水化技術など)を活用して世界の水問題解決に貢献していくことの重要性も説いている。日本が世界の水問題解決に貢献していくことが、巡り巡って輸入食料や国内の水資源確保にも結び付く。「水を制する者は国家を制する」の自覚をもって水資源に恵まれた豊かな国づくりに邁進することで2050年に向けた展望が開けると記事を締められている。

日本農業のあるべき姿~食料自給率をどう高めるか~」とのタイトルで大潟村あきたこまち生産者協会会長涌井徹氏が投稿されている。今、コメの価格問題が世の中を賑わしている。その原因は、50年以上続いた減反政策の影響と断ずる。今、日本の就農人口のうち、農業を生業とする基幹的農業従事者の数は約130万人で平均年齢67~68歳。これが2040年には30万人にまで落ち込むと言う。涌井氏は、新潟から21歳の時秋田県大潟村に行けば10ヘクタールの土地で米作りができると、希望に胸膨らませて入植された。がこれが戦いの幕開けだったと言う。行政や農協などからの避難ごうごうの中、減反政策に抵抗して米作りを続けられ、自ら生産者協会を設立して独自の販売先を開拓し、今ではコメの全自動のパックライス工場で年間3000万食以上の生産をあげているという。パックご飯は、海外への輸出にも取り組まれている。減反政策の根本的な問題は、国内消費を前提にしていたことだと言う。海外に目をやれば需要はまだ多くある(今、米価高騰で海外米が出回っている)。涌井氏は、「若者が夢と希望をもって参入できる農業を創る」ことが今の命題と考え、いろんな施策を打ち、又打たんとされている。農業を家業から産業へと言うのがテーマだ。すでに無洗米、発芽玄米、米粉食品、非常食の開発にも乗り出し販売されている。スマート農業の推進など現在海外投資主体で赤字の農林中央金庫の日本農業の再生への活用などへの提案もされている。安全保障面での食料自給率の低さの問題もあり、涌井氏の国内の農業にかける熱意に国も応える必要があるのではないかと強く思う。

今国会で、初めての熟議が始まっているが、「楽しい日本」という漠とした概念ではなく、日本の将来図を描き、その目的実現に向けた工程に関する議論の展開が是非とも欲しい。年度予算に終始している熟議だけでは、日本の将来はほんとに危ない!

こんな人生がある?サヘル・ローズ(俳優)!

「致知2025.1月号」で「一人でも多くの人に“ありがとう”を届けたい」との俳優サヘル・ローズさんの記事があった。正直サヘル・ローズさんを知らなかったが、小さい時からの苦難続きの中を、強い意志を持って日本で俳優の道までたどり着いたその壮絶な人生に、ほんとに驚いた。

記事のリード文は

「戦火の中のイランに生まれ、幼少期を孤児院で過ごしたサヘル・ローズさん。8歳の時に義母であるフローラさんとともに来日。現在は俳優・タレントとして幅広く活躍。難民などの国際人道支援活動にも尽力するサヘルさんに、壮絶な人生の歩みを交え、一人ひとりが心豊かに、幸せに生きるヒントをお聞きした。」

とある。

彼女の生い立ちに驚く。1980年代、イラン・イラク戦争の最中に生まれた。が、自らの記憶は4歳ごろから始まり、その時にはすでにイランの児童養護施設に入っていたが、出生届も出されておらず、実の両親も、自分の名前も、誕生日さえも分からない状態だったそうで、今の年齢も当時の背丈から決められたと言う。そして、7歳ころ当時テヘラン大学の学生で人道ボランティアをしていた今の義母・フローラさんと出会い、今に至る人生が始まった。サヘル・ローズという名前もそのフローラさんが名づけ親だそうだ。フローラさんの家は裕福だったが、孤児を養子に迎えることに反対されたため、家族とは絶縁状態となり、当時日本に留学していた主人を頼ってサヘル8歳の時に来日。しかし、埼玉での義父との生活は始まったが、義父のサヘルへの暴力に耐えきれず、フローラさんとともに家を出てしばらくは公園の土管で寝泊まりしながら小学校に通う生活を強いられたという。しかし、スーパーの店員や学校の給食のおばちゃんなど、周囲の人に助けられた。特におばちゃんは、公園で過ごしていることを知り、フローラさんとともに自宅に住ませてくれたそうだ。外国人だからとレッテルを貼らず、同情ではなく同じ人間として自然な形で自分のできることをしてくれたとサヘルは言う。

中学の3年間も壮絶ないじめを体験し、中学3年の時、家に帰ってフローラさんに「死にたい」と伝えたところ、サヘル以上に生活に苦労していたフローラが「あなたが望むならいいよ。でも、お母さんも一緒に連れて行って」と。この時、サヘルの思いを否定したり、頑張ろうと言われていたら死んでいたかもしれないとサヘルは振り返る。フローラさんを抱きしめたら、骨と皮だけになっていることに気づき、フローラさんはすべてを犠牲にしてサヘルのために人生をささげてきたことに気づいたという。その時、「フローラさんを幸せにしてあげたい」、

フローラさんが施設で自分を見つけてくれたように、今度は私が本当の意味で彼女を見つけた瞬間だった」だったと振り返る。そして、その瞬間が、自分が生きていく意味を見出せた人生のターニングポイントだった、と言う。

その後、大学時代のエキストラから始まり、自分が活躍することでフローラさんという素晴らしい女性がいることを多くの人に知ってもらいたいと俳優の道に進んだという。

このような壮絶な人生を経験したサヘルが言う。「人生は本当に鏡のようなもので、自分が日々どんな言葉を発しているか、投じたものが全部自分に跳ね返ってくる。どんな失敗や挫折も、必ず自分の成長の糧として返ってくる」と。

今、サヘルは「ありがとう」の言葉を大切にしているそうだ。こんな壮絶な人生を経験しながら、「世の中に当たり前のことは一つもない。どんな仕事にも上下はない、だれ一人欠けていい人もいない、あらゆることが繋がっていて“ありがとう”と感謝すべきこと」と言う。

このような考え方で、俳優をしながら、国際人道支援活動にも力を注ぎ、世界の児童養護施設で暮らしている子供たちや、戦争などで居場所を奪われている人々の支援を行っている。

現在、初監督作品「花束」が公開され、大きな話題となっているそうだ。

こんな壮絶な人生を乗り越えられたのは、フローラさんや給食のおばちゃんに助けられたことが大きいが、サヘルの生き方(自分の惨めさを他人のせいにせず前向きに生きる)に心を動かされた人が多かったことではないかと思う。

今のサヘルさんの活動をはじめ、全く知らなかったサヘルさんに関して今後も注目していきたい。

日本被団協:ノーベル平和賞受賞おめでとう!

12月10日オスロでノーベル平和賞の授賞式が行われました。そのスピーチを被団協代表委員の田中熙巳さんがされました。田中さんは92歳のお年です。渡航の2週間ほど前まで体調を崩し、その中で強い重圧を感じながら原稿を書きあげられたとのことでした。田中さんは中学1年の時原爆で被災された当時のことを生々しく述べられるとともに、原稿にない日本政府の在り方(被爆者への保障問題)に対しても言及され、いろんな面で世界に衝撃と共感を与えられた。

1945年8月の被曝により、同年末までに広島では約14万人、長崎では益7万4千人の命が奪われた。それから79年、厚労省によると今年3月末時点で「被爆者健康手帳」を持つ被爆者(106825人)の平均年齢は85.58歳と高齢化が進んでいる。

原爆被害は戦後10年近くGHQの占領下で国民に知らされることはなかったが、1954年の米国によるビキニ水爆実験での第5福竜丸の被曝事故がきっかけで広島・長崎の被曝も公になったそうだ。それをきっかけに1956年に原爆被害者の全国組織として日本被団協が結成され、今年68年目を迎えている。会の精神は「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」だった。

政治の駆け引きもあり紆余曲折を経て、冷戦下の70~80年代に世界的な広がりを見せ、1982年にはニューヨークで反核を求める大行進が行われ、国連軍縮特別総会で、被団協代表の山口仙二さん(2013年没)が発した「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウオー、ノーモア・ヒバクシャ」が有名だ。

被曝して体調が決して万全ではない中、国内だけではなく、世界で活動された被団協の方々に頭が下がる。自分のことは棚に上げ、世界中の人のことを思い、核廃絶のための活動をされた、まさに「For You」の被団協の皆様が、やっとノーベル平和賞の栄誉に輝かれたことを心よりお祝いしたい。

田中さんの演説にもあったが、68年の活動を経ても、世界はロシア、イスラエルが核の使用をちらつかせ、核廃絶に至るには、今でも大変な壁がある。被爆から79年経ち、被爆者の高齢化に伴う活動の継続が心配されている。今回オスロに同行し、地元の高校生との交流会で原爆禁止を訴えた高校生平和大使4人の平和活動はすばらしい。これからは原爆被爆の経験のない若い世帯が被爆者の心を引き継ぎ、世界を巻き込んで二度と広島、長崎のような被害のない、平和な世界の実現に向けて頑張って欲しい。世界には被団協の活動のお陰で同じ心を持つ人たちが数多くいる。(12月11日の朝日新聞朝刊の記事を参考にしました)

冲中一郎