「日本人の誇り3」カテゴリーアーカイブ

日本の文化、自然を維持したのは外国人?

昨夜(2日)NHKで自然遺産が大好きダニエル・カールと文化遺産になった富士山に魅せられているパックンが、自分の好きな日本の世界遺産をプレゼンテーションする「世界遺産ドリーム対決」と言う番組を放映していた。

幕末,文明開化に憧れる日本人たちは伝統的な日本文化を軽んじ、日光の東照宮などは荒廃の危機に陥りました。それを救ったのは日本にやってきた外国人たちだったと言う。明治初期の外来の仏教を排する「廃仏毀釈」運動で、全国の寺院・仏像・地蔵が破壊されることになったが、フェノロサが政府に嘆願して奈良の法隆寺や、興福寺が残ったとも言う。フェノロサの配下にいた岡倉天心が、破壊された何百もの仏像の修復にあたったそうだ。当時奈良の五重塔も薪用として売り出され、その値は今の価値で2万円だったとか。

ハーバード大学の要請で屋久島を訪れた(1914)ウィルソンは、日本の四季が凝縮された屋久島の自然美に感動し、当時の屋久島の若い人たちに屋久島の自然を維持するよう懇願したと言う(最近当時の写真がハーバード大学で見つかった)。屋久島には大きな切り株(大阪城建設のために伐られた切り株にウィルソン株と命名されている。100メートル素潜りの記録を持つマイヨールがこよなく愛した世界遺産八丈島もある。

彼らは日本の美術・建築・自然の美しさに魅了され、日本人が気付いていないそのすぐれた価値を伝えた。彼らの日本文化への愛がなければ、日本の世界遺産は存在しなかったかもしれないのだ。以前当ブログで、伊勢神宮や、白川郷、桂離宮などを「パルテノン宮殿に匹敵する建築物」と評価したブルーノタウトの話をした(http://jasipa.jp/blog-entry/9085)。このブログでは「自社の強み、個人の強みを知るためには、積極的に外の世界と交流し、自社を、自分を“素直”に見つめ直すことが必須ではないかと思う。JASIPAなどの集まりに参加することで、他社との人脈を広げる機会を得ることも、その意味では大いに意味あることと思う。普段当たり前と思っていることが、意外とそうではなく、自分の強みだと分かれば、大きなエネルギーに変わり、大きな生きがいにもなる。」と締めくくった。フェノロサがいなければ、法隆寺や興福寺、仏像などが消えてしまっていたかも知れないと思うと、畏怖を感じる。

天皇陛下、傘寿(80歳)のお誕生日

JOG-MAG NO.289(12.22)に「被災地を明るく変えた両陛下のお見舞い」との記事がある。両陛下の国民を思う気持ち、人間力が偲ばれる記事だ。東日本大震災48日目(4月27日)に南三陸市、仙台市を訪問された。それも地元への負担をかけないよう自衛隊航空機で日帰り往復するという強行軍だった(それまでは現地の救援活動に支障が出てはと、東京や埼玉県、千葉県、茨城県に避難した被災者のお見舞いに留めていた)。5月6日には岩手県の釜石市から宮古市、5月11日には福島県の福島市と相馬市をお見舞いされた。両陛下のお言葉に元気をもらった被災者の言葉がいくつも紹介されているが、仙台市長は「避難所で、被災した方が今のつらい現実を両陛下に訴えるのですが、その度に被災者の痛みをしっかり受け止められ、深い慈愛でお答えになるのです。今回の震災のような災害は、とても理不尽なものです。その理不尽なことが国民に起こった時に、ともにいて、慰めるということがどれほど大切なことかを深く思っていらっしゃるからこそ、一つひとつのおことばが国民に届くのだと思います。」と言う。ヘリポートから移動されるマイクロバスの車内でも、窓から被災者に挨拶されるために立ちっぱなしだったとか。この記事の最後に「両陛下はひたすらに国民の幸せと平和を願われている。それは親が無私の心で子供の幸せを願う「肉親の情」そのものである。その「肉親の情」を一身に受けているのが、「天皇皇后両陛下のもとの日本国民」の幸せである。」とある。ご高齢でのこの行動力にはほんとに頭が下がる。

「致知2013.7」に前侍従長の渡邉允氏の「天皇皇后両陛下にお仕えした十年半の日々」と題した記事がある。「朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通して続くことになる」とそのお忙しい日々を語っている。例えば、午前中は宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿に行かれて社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式、その後、新しく着任した外国夫妻のためのお茶会、夜は御所で、近く訪問予定の国の歴史について学者の話をお聞きになるというようなお忙しさと言う。宮中祭祀は年間20回程度あるそうだが、例えば新嘗祭では夜6時から8時と夜11時から深夜1時までの4時間ずっと正座とか。避難所でも座っている被災者と話されるとき、床に膝をついて一人一人の被災者と話されている姿が印象的だ。決して物事を蔑ろにせず、いい加減になさらない姿勢(法律や条約の批准書などの認証行為でもすべてに目を通される)、非常に勤勉でいらっしゃる、そのような両陛下の生き方に多くを学ばせて頂いたと渡邉氏は言う。そして、陛下はいつ、いかなる時も国民の安全や幸福を第一にお考えになっていることを身を以て実感されたそうだ。

今日は「天皇誕生日」。JOG―MAG記事の最後に「天皇陛下は80歳の傘寿(さんじゅ)をお迎えになった。我々も「肉親の情」を持って、子供が親の長寿と健康を喜ぶように、お祝いしようではないか。それは日本という「我が家」の慶び事である。」と。心からお祝い申し上げたい。

「言霊の幸う国」の教育とは

日本のことを「言霊(ことだま)の幸う(さきわう)国」と万葉の時代から言われているそうだ。「致知」の連載「日本の教育を取り戻す(中村学園大学教授占部賢志氏著)」の4回目に「短歌に感動を刻む~言霊の幸う国」の教育とは」とのテーマの記事があった(以前「語り継ぎたい美しい日本人の物語」の連載で占部氏の記事を紹介http://blog.jolls.jp/jasipa/nsd/date/2011/10/13)。

高校教諭を経て真正面から日本の教育に取り組まれてきた占部氏が説くのは、今の学校教育で欠けているのが「自己省察」だと。登校拒否や引きこもり、対人関係不適切などの現象は、自己に囚われてしまうから生ずるのではなく、むしろ自己との付き合いが出来ていないから起きると言う。そこで高校教諭時代に取り組んだのが短歌の創作と批評だ。その契機となったのが、田安宗武(徳川御三卿の一人)の「歌体約元」だった。宗武は、「そもそも歌と言うものは、人の心のうちを表現するものだから、素直な人は歌も素直。ふざけた人は歌も似たものとなる。隠そうとしても隠せない。歌とはそういうものだ。だから己の良し悪しも歌に詠んでみればはっきりと自覚できる。」と。要するに、ダメな歌だと思ったら推敲して言葉を改める。すると不思議に自分の心に潜む邪悪なものが消えて素直な心に変化するものだと言う。

占部氏は例を挙げる。授業態度にあきれて

我が授業聞かずざわめく悪童よ、赤点つけて怨み晴らさん

しかし考えてみれば、自分は生徒が食いつくような授業をしていただろうか?そんな反省から

悪童も聞き入る授業目指さんと、ひと夜を込めて教材つくる

こんな短歌の言葉に誘われるように、己の心の内も、あの悪童たちが身を乗り出すような授業をやってみよう、そのために教材開発をやろうと、そんな意欲が次第に心を満たしていく。このことが宗武が説いた歌の神髄。

占部氏が教育に採用して、記憶に残る歌を挙げる。オリエンテーリング合宿で悪童のリーダー的存在の生徒が作った句。

朝起きて耳をすませばにわとりが
夜が明けたよと教えてくれる

対人関係が苦手で修学旅行のスキーに行くのも躊躇した女性が詠んだ。

スキー終え帰りの道のバスの中
思わず足に重心かける

ゲレンデでの練習を思い出し、ボーゲンの格好をバスに揺られながら自習していた。休みがちだった彼女は以降皆勤。台風一過の登山で

台風の強さに負けず育つ木々
そのたくましさに我も見習う

同じ登山でもう一人は

英彦山の山に登りて見渡せば
木々が倒れてあわれに思う

見方は違うが、それぞれの個性とも言うべき感受性が表現されている。生徒たち一人一人に潜在化している個性が、言葉を通してほんの少し顔をのぞかせる。そして、自分を省みることが出来、前向きな取り組みに自分を導く大きな契機となっていると言う。

以前「楽しみは・・・」で始まる独楽吟を紹介した(http://jasipa.jp/blog-entry/8699)たしかに下手でも詠むと気持ちが随分変わる実感を覚える。短歌やってみようかな?