チャン・ツィイー、渡辺謙、ミシェル・ヨー、役所広司、桃井かおり、工藤夕貴、コン・リー出演の「Sayuri」を観た。
映画「sayuri」の公式サイト今日は「女性1,000円の日」でチケット売場は長い列になっていた。それでも、入ってみると前の方はガラガラであった。私は映画は前から5番目の列の中央で見る。後ろの席とは臨場感が桁違だ。
日本語も一部は入っていたが大半のセリフが英語だった。日本の美が四季折々に表現されており、ヒロインの悲惨に対比して実にミヤビだ。但し「蝉しぐれ」の美しさとは違った若干どぎつい「国際的な美」の世界だ。侘び、寂び、控えめの日本の美ではなく外国人が感じるであろう「出っ張った雅」の世界だ。私はどちらの「美の世界」も好きだ。
考証で仔細に見れば日本の事実と違った所も沢山あるのではないかとは思った。某有名作家は知りもしないで祇園を勝手に画くなと怒っているそうだ。それでも、マクロで見れば「海外へ流出した浮世絵」みたいなもので日本美・日本文化の理解には少なからず貢献しているのではないかと思う。テーマ的には「フジヤマ・芸者・・」の類であるのは残念だが。
日本人でもほとんど入ったことのない京都の花柳界のinsideをお客の目線ではなく芸者・置屋の目線から撮った映像は貴重で面白い。
主役が中国人であることに観る前にはかなりの抵抗感があった。しかし観終わってみると違和感は何処かへ吹っ飛んでしまっている自分に気が付いた。
「どうしてかな」と考えたら納得がいった。なぜなら、英語の問題を除いても、日本人にはこれ以上の女優がいないんじゃないかということに気が付いた。独断で決め付けてはいけないとは思うが。
「さゆり」はいわば「芸者ファイター」だ。ハリウッドのディメンジョンで見た時、このすさまじい演技が出来るのは中国人チャン・ツィイーしかいなかったのではと思った。凄いのはチャン・ツィイーが単なるファイターだけでなく「情念の世界」も演じきったことだ。
いつの間にか「自然に」日本人の場所に入っている「中国」に気が付いた。国際社会から窓際される日本人にも気がついた。キーワードは「志」「英語力」と「闘争心」だ。
桃井かおりには存在感があった。オーディションで参加して準主役の座を演じきった桃井かおりは素晴らしい俳優だ。彼女は日本社会をはみ出るくらいに個性のある人だからこそ「この立場」が獲得できたのではないか。強く・リスクの取れる日本人は世界で活躍できる。
落語の「とはとは千早の本名だ」ではないが、Sayuriは千代の芸名、というより「芸者の源氏名」だ。終盤で自殺を思わせる場面があった。「えっ、死ぬのか」と身を固くした。
そこはハリウッド映画、「The END」は敬愛して止まなかった「会長」の囲われ者になって「メデタシ・メデタシ」で終わる。最後に会長はsayuriを「千代」と呼んだ。
「芸者」ではない「一女性としての千代」を愛したのだ。安心して家路についた。ハリウッド映画は精神衛生に良い。