夏休み旅行でトルコへ3(エフェソスの遺跡)

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今日も朝が早い。6時モーニングコール、6時半朝食、7時出発だ。180kmを3時間掛けて世界最大の遺跡「エフェソス」(ポンペイの2倍、ただしポンペイは未だ発掘が続いており何時まで2倍でいるかは分からない)へ行く。

エフェソス(今の地名はエフェ)へは直接バスで乗り込むのではなく、途中のイズミールのローカル鉄道始発駅バスマネから電車に乗り、エフェソス近くのセルジュイック駅まで1時間ほど掛けてトルコの電車に乗った。

バスマネ駅と駅周辺、電車及び車内風景

1時間ほどの短い鉄道の旅だったが景色の変化がダイナミックだった。最初は駅周辺のスラム街から始まり、工場・商店街、お洒落な郊外の住宅地になり、畑があり、山が多くなり、又畑になった。

セルジュイックはヨーロッパ風のお洒落な町でローマの水道跡が綺麗に残っていた。町並みもヨーロッパ風でお洒落だ。ここからエフェソスは直ぐだ。セルジュイック駅で電車のすれ違い、渡線橋は無く、みな電車の前で線路を渡る。のどかだ。

エフェソス遺跡の特徴は中々良く復元されていることだ。そうは言っても、エフェソスも又未だ発掘中だ。未発掘の部分の方が遥かに多い。何事にも、ゆったりなこの国のことなので10年単位で進むのだろう。「エフェソス」は紀元前11世紀、ギリシャから来たイオニア人が作った街だ。紀元前130年には10万人の人々が住んでおり、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ第3番目の都市として繁栄した。セルスス図書館、ハドリアヌス神殿、オデオン(少人数の音楽堂)、ヘラクレスの門、バジリカ、大劇場跡(復元率が一番高い)などの遺跡が完全ではないが再建され真夏の強烈な太陽の元、燦然と輝いていた。2時間掛けてたっぷり見学した。

貿易で富を築いたそうだが、貿易風を利用して東西交易の拠点になったようだ。河口にあったが上流からの土砂で港がうずまり疫病も流行ったのでうみから5Kmほど上流の今の土地へ遷都したようだ。海洋貿易で栄えた国が海を離れれば終わりだ。ピサも貿易で栄えたがダ・ヴィンチの計略で海を埋め立てられ勢力を失った。

ラテン系(イタ・スペ)の人たちが来る前に見学を済ませようとベテランガイドのハッサンが計画してくれていたので渋滞に巻き込まれなかった。30分遅れで大量のイタリア人、スペイン人の団体が来た。彼らは夜行性なので夜も遅いが朝も遅い。それに身勝手で煩い。時間をずらしたので遅い昼食を13:45から近くのレストランのオープン・エアで取った。

アルテミス神殿の跡地を見に行った。殆ど何も無く、135本あった円柱は1本だけが残っており、その天辺にはコウノトリが巣を作っていた。あとの134本は火事で無くなったとベテランガイドは言っていた。石柱が火事で消えるか?2000年も前の話は何でも有りだ。論理を遥かに超える。「不合理なるがゆえにわれは信ず(Cogito ergo Absurdam.)」とのたもうた有名な宗教人もいた。

エフェソスからは途中のナズリでトイレレストした以外はノンストップで215kmを3時間ほどでパムッカレのホテル「Lucus River Hotel」へ着いた。コテージが沢山あるリゾートホテルで、中心に大きなプールがでんと構えていた。大理石をふんだんに使った立派なホテルだ。

温泉もあり、男女混浴で水着を着て入る。結構多くの人が温泉を楽しんでいた。勿論日本のような泉質の表示などは無い。風呂(プールかな)の底には砂や砂利が多く落ちていて、日本の温泉とは質的に全く異質なものだった。

プールサイドでの夕食はお洒落だった。しかもプール間際の良い席を取ってくれていたが、バイキング料理の置いてあるテニスコートまでは結構遠かった。バイキング形式の夕食は決して美味しくはなかった。不味いと言っても過言ではない。何を食べればよいか困ってしまった。どうしても、トルコ料理がフランスや中国と並んで世界3大料理と言われるのは納得できない。

洗練や繊細などの料理のキーワードが全く抜け落ちている。甘いものは甘すぎ、塩辛いものはから過ぎる。加熱の微妙な加減もなく徹底的に焼き上げる。炭になったかなと思うくらいだ。イタリアや日本の料理の方が遥かに美味い。残念ながら、料理の世界にはケマル・パシャ・アタチュルクは出なかったのだ。