いじめの実態と対策を書いた「教室の悪魔」を読んだ

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かねてどうしていじめがこんなに起こるのかに関心を持っていた。日経に山脇由貴子著「教室の悪魔」の紹介記事があったのでかなり前に読もうと思ってこの本を買っておいた。時間がなくて読めなかったが今日やっと読んだ。

不思議なことに同じ時間にNHKスペシャルで「ともに悩み、闘う・・長野県いじめ対策チーム」を放映していた。本で読んだだけでは実感に乏しかったが映像で見ると感覚的にも良く分かった。13歳の息子をいじめで亡くした人が田中康夫知事に請われて教育委員会「いじめ対策チームリーダー」をしていた。

「いじめ対策」が出来ない教師が多いようだ。ある50代の教師はいじめリーダーから「全員で先生の授業をボイコットする」と脅されて、いじめ対策を具体的に進めることが出来なくなっていることが露見した。解決が出来ないのだから見ても見ぬ振りをする。

いじめをされる生徒には一切問題はない。何の問題もなくてもいじめは堂々と陰湿に行われる。同じクラスで2人が同時にいじめられることはないそうだ。2人以上いるとそこに連帯感が出来てしまい、いじめの効果が減殺されてしまうからだ。一人ぼっちで無視されたり、皆から「臭い」「うざい」「何時死ぬの」とか次々に繰り返し言われたり、小突き回されながらいじめはエスカレートして行く。メールで「エンコーしている」と噂をばら撒かれたり、親兄弟のいかがわしい噂・映像を流された例もある。しかもこれでは発信者の特定が難しい。高度な神経戦だ。

親に言えば「ちくった」と言うことでさらに酷いいじめをされるので親にも言えない。先生に言ってもただ隔離されて1日中別の部屋で自習をさせられた生徒がいた。先生にはいじめに対抗する能力がない。いじめられている子には一切の味方はいない。味方をした子がいれば今度は次のいじめの対象にされてしまう。別の子へいじめが移るとそれまでいじめられていた子供も進んでいじめに加わる。「共同体」ではいじめに加わらないと何時又自分へいじめの矛先が向いて来るかも知れないからだ。

対策には学校の校長先生や担任の先生、クラス全員の両親、特にいじめリーダーの親など大人の連携が必要だ。したがって結構大変だ。一度巧く行ったかに見えても再発した事例も多い。注意深いフォローが要る。

■自分の子供がいじめにあっているかどうかの判断基準は以下のようなことだ。

・最近良く物をなくすようになった。(壊されたりしてる)

・学校のノートや教科書を見せたがらない。(いたずら書き)

・親の前で宿題をやろうとしない。

・お金の要求が増えた。親の財布からお金を持ち出す。

・学校行事に来ないで欲しいと言う。

・無理に明るく振舞っているように見える。(限りなく暗い)

・学校のことを何も言わない、具体的に聞くと怒る。

それぞれに理由があるが基本的なことは「いじめの事実」を親に知られたくないことだ。親に知られても何の解決にもならない、むしろ悪くなると思わされているところにこの問題の解決の難しさがある。いじめられている子供は親にも先生にも必至になっていじめの事実を隠す。

何故このようなことが頻発するのか?極めて由々しい問題であるがそこには子供達の将来に対する閉塞感があるのではないか。どうせ真面目に勉強してもロクなことはない。親見れば・・「面白くないからいじめでもやろうか」みたいな潜在意識からこのような問題が出てくるのではないか。多分食うや食わずの世界ではこのような非生産的な行動をしかも集団で行うことなどありえない。

「いじめリーダー」は多分自分の親をなめているはずだ。親=大人であるから、大人の尊厳や権威が地に落ちていることも原因の一つだ。いじめを根本的になくすには先生や親などの教育が先ず必須だ。その教育を誰が何時やるのかといえば非常に難しい問題だ。

そこで対症療法になる。やはり「大人の世界は子供の世界のいじめを絶対に許さない」と言う強力で具体的なメッセージを子供達に対して発信し続けることだと思う。これは失墜した親・先生=大人の権威を取り戻す戦いでもある。

「いじめは集団ヒステリーだ」と言われた心理学者がいたが日本人の集団志向も影響しているのかもしれない。これは先の戦争で多くの人達が経験した歴史的な事実だ。旧来の日本人は共同体・団体民族だ。近頃の若者にはもっと個人主義が定着しているのかと思った。団体でしか行動できないなんて軽蔑モノだ。「個人の尊厳」が理解・確立されない。個室の入れても良い意味の個人主義が育つ訳ではない。そんな所では「文化・文明」は生まれない。