藤沢周平原作・山田洋次監督の映画「武士の一分」を観た。他の藤沢文学にも共通する武士の世界の不条理と言うか、残酷さ・暗さに満ちた作品だ。「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」に続き私が観た3作目だ。「蝉しぐれ」ほどの感動はなかった。画像も暗い。
文芸能力に秀で、剣でも免許皆伝の三村新之丞も太平の世では親譲りの30石で近習組の毒見役でしかない。美しい妻加世とつつましく楽しい生活を送っていたが、ある日毒見した貝に当たり失明する。自決を考えるが妻の説得で思い止まる。しかし親戚では今後の暮らし向きについてどうすべきか堂々巡りの議論がなされ、その席で「困ったことがあればいつでも相談に来い」と前に声をかけられていた番頭島田藤弥のことを加世が話すと全員一致でお願いに行くことが決められてしまった。
この映画では「盲目になった主人公が妻の仇をとる」とだけ聞いていたので、いつどんな嫌なことが起こるのか映画を見ていても気が気でならなかった。
坂東三津五郎演ずる番頭の島田は家柄も良く切れ者で若くして藩の重職についていた。男の自信と傲慢と更に欣司までも実に良く演じ切っていた。歌舞伎役者は一味違うと思った。地位も手にいれ、女も手にいれ人生の9分をモノにしたと思った瞬間、下級武士の「武士の1分」に阻まれて尽き果てる。
武士はいつでも「死」と隣りあわせだ。失敗の責任は「死」であがなうしかない。まるでやくざみたいな凄惨な世界だ。天下泰平の徳川300年間は下級武士に論功のチャンスはなく、武士の中で階級が固定し実力のある下級武士は切歯扼腕していた。この様な下級武士の人たちが「明治時代」を創り、日本を世界の列強にまで押し上げた。
しかし成功の中に失敗の種が潜んでいた。薩長土肥の藩閥体制で固めた大日本帝国陸海軍には柔軟性と自己改革力がなく視野狭窄に陥って太平洋戦争に突入し国を滅ぼした。武士の世界では失敗の責任は死であがなうが、太平洋戦争では誰も責任を取っていない。ここから今日の情けない日本が始まったように思えてならない。馴れ合いの55年体制は「通過点」だ。今藩閥のプリンスが日本の改革を担っている。皮肉な取り合わせだ。出来るのか?